投稿者「nemoto」のアーカイブ

よくわからないことは多い(思考停止メソッド)

「自分で考えるのをやめる」という思考停止メソッド(?)を始めて一週間とちょっと過ぎた。そうはいっても全然たくさんのことを考えているけれど、「もやもやと思い悩む」というほど考え続けることはなくなった。

思考が始まると、ある程度のところでたいていは不快感が始まる。そこで、「あ、考えるのはやめたんだった。潜在意識が全部完璧にしてくれるんだ」という決まりごとに気づく。考えるのをやめる。思考はしつこく湧いてくることもあるけれど、頭のなかで何かと何かが戦い続けるようなことは減った。

変化はある。なんとなく、というかはっきりと、寝起きがすっきりしている。いままでもたまにそういうことがあったけれど、最近は連続してすっきりしている。目の周りがひんやりして(それは冬だから)、頭が空っぽでクリアな感じがする。気分も少し、いやだいぶ軽くなっている。

自分で何も考えない。すべては完璧な潜在意識が執り行う。そうすると、だいたいのことはわからなくなる。何が正しいのかわからない。AかBかと質問されてもわからない。自分で考えないので、わからないのは当然だ。まあ、人に聞かれればなんとなくしゃべる、わからないなりに。でも参照すべき客観的な正しさはどこにもない。これは正直すごく気が楽だ。

たとえば誰かの特定の振る舞いをどう思うか。わからない。自分がどう感じているかはわかる(それを言葉で表現できるかは別として)。ただ、どう感じるべきかはわからない。また、他者がどう感じるべきかもわからない。他者がどう感じているかはその人が感じているだろう。

この世によくわからないことは多いのに、わからなくちゃいけないとなぜか思い込んできた。わからないことは悪いことではない。ただわからないというだけのことだ。そのままにしておいてもいい。

自分の立場を明確にしてそれを守り通すための力が必要なくなると、エネルギーも浪費されなくなる。

わからないでいいと思うと本当に楽だ。

というか、ずっと前から、何が正しいかなんて、全然わからなかったのだ。ずーっと、わからなかった。そのことをようやく受け入れたような感じだ。諦めというより、安堵感。

考えなくても、わからないままでも、問題なく物事は進んでいくし、普通に行動もしている。ちょっと信じられないけれど、こういう世界があったのだ。

「インナーゴルフ」が素晴らしすぎた。

「インナーゴルフ」というかインナーゲームオブゴルフ。すごい大胆に端折った邦題だ。

とにかく素晴らしくて、線を引きまくり丸をしまくって読んだ。引用とかもうめんどくさいので、買って読んで下さい。本当に素晴らしいです。スピリチュアル系の本読んでる人からしたらわかる、わかるよ!ってなるし、かといって地上から数センチ浮いてない系の実用書なので、ふふふふふという感じでわくわくしてくる。とりあえずゴルフやりたくなる。

セルフ1を黙らせる。セルフ2を信頼して任せる。これってもう完全に「自分で何も考えない。潜在意識がすべてやってくれる」の世界観。一応基本はセルフ1が目標とかどうしたいかを決めるんだけど、途中からそれもセルフ2にやらせよう、ってなる。「もう私にはどうしたらいいかわからないので、君がやってくれ」的なことを言い出す。サレンダー。

やっぱり号泣したところだけ引用しよう。特別に。

これは、私の勝利だった。(…)私は幻想を打ち砕いたのだ。専制君主の支配から脱出することができたのだ。私はずっと長い間、その支配から逃れられなかった。いい結果を出したときにはいい気分と名誉が与えられ、失敗したときには自分を責め、無力感にさいなまれた。その褒美を目当てに、私は彼の奴隷となって、いつもいいショットを打とうとしてきた。けれどこのときの一打を境に、私は自分の内側の専制君主に決別し、独立を宣言したのだ。彼は私から真の喜びを奪い、芸術を奪い、彼が要求する結果を自ら邪魔だてしてきた。彼が私に与えてきたつもりの褒美は、実は現実ではなく、幻想の幸福に過ぎなかったのだ。私はボールに向かって歩きながら、そう考えた。私はこれでより強くなったのだとも思わなかった。自信がついたとも感じなかった。ただ単に、誘惑に強く、傷つきにくくなったのとだけ、感じることができた。

生きるって本当は純粋に喜びで、この身体を持ってさまざまなことを感じるということがそれ自体ものすごい僥倖、奇跡の瞬間の連続みたいなものなんだろうと思う。感じること、知覚すること、気づくことは同じことの繰り返しではありえない。不安定で不確か。だからこそ新鮮な喜びに満ちている。
生きるって要するにそういうことなんでしょ。

なのになぜかセルフ1とここで呼ばれる私たちの思考は、そこで安定を求め、同じことを繰り返そうとする。なぜ? 自分の存在意義を証明するためだ。生き延びるためだ。つまり本当はセルフ1は実在しない。自分が架空の存在だってことを知ってるんだ。Unicorn is Real, but self 1 is not real!!!

自分が一生懸命考えて批判して判断しているから安全が守られるんだよってことを証明することで、自分が実在しないことをごまかす。そのために、うまくいかないときは自分(セルフ2)を叱責し、うまくいってるときは自分(セルフ2)を疑うことをし続けた。なんて奴!!

でも、そもそもなんでそんなやつのいうこと聞かなきゃいけないんだ???? なんでそんなやつのいうこと聞いてきたんだ!!?? 非実在存在のいうことを真に受けて。

だいたいなんでもセルフ2がやってんだよ。呼吸も歩くことも、手を伸ばしてコップをとることも、ゴルフのスイングも、こうして文字を打つことだって。

ここで唐突にガルウェイのフォーミュラ。

P=p-i
パフォーマンス=ポテンシャル−インタフェア
(発揮する能力=潜在能力−妨害活動)

ワオ、ワオ、ワオという感じだ。シンプル真理すぎる。

セルフ1を黙らせて、セルフ2にすべてを任せる。それでも残る何かが「誠意」だったとガルウェイはいう。なんということだろう。

究極の誠意とは、もはや何も考えない状態に至ったとき、最後に残る「何か」のことだ。

 

物事に深い意味はない

物事に深い意味はない。あると思って生きてきたが多分ない。

陰謀論者はすべてに隠された意味、理由と原因とがあると思っているが最終的にどこまで行くつもりだろうか(行き着くところがない)。 原因は最終、自己原因になるかループする、という結論が哲学的に出ていたはず。無限に外部を求めるということか(未来に先送りする)。どれも病的な思考ではあるが、自己原因ならば、思考をやめて静かに暮らすことができる、スピノザのように。(そういうことか…とひとりで勝手に納得する。)

物事に深い意味はない。そしてあると考えてもないと考えてもあまり差がない。苦楽の差くらい。で、この苦楽の差のために、血と汗と涙を流し、人生を棒に振っているといっても過言ではないのに、深い意味はないと考えてラクに生きるよりも、深い意味があると考えて苦労してその末にラクをつかもうとしているのが人間で、ちょっと意味がわからないと思うけれど実際そういうことをしている。

目の前におまんじゅうがあるのだけど、それを食べないですごく過酷な旅に出る。何を探してるのかと聞くとおまんじゅうを探しているのだという。

「え、それならさっき、ちゃぶ台に…」
「いやそんな単純なおまんじゅうじゃなくて、もっと深い意味での…真実のおまんじゅうを求めてるんです」
「(……衝撃!)」

これが人生である。

で、深い意味があると思って生きることにも深い意味はないので、このことについてこれ以上深く考える必要もない。人の旅はもちろん、自分の過去の旅についても考えなくていい。

私もカンヌで絶賛したかった「お嬢さん」

見なきゃと思いながらどうも気が進まなくて、ついに見たのだけれど、こんなに素晴らしいならもっと早く見ればよかったと悶絶するという一人コントを繰り広げていた。本当に素晴らしくて、途中声をあげて笑っちゃうくらいで、ガッツポーズして最高!って感じだった。

素晴らしい映画についてはそんなに言うことがないし、コメントもしにくい。これはどう考えてもネタバレ回避すべき作品だ。

でもうっすらとネタバレしないとこの先が書けないので、この先を読むと、どことなく、わかってしまうので見る前に読まないでください。


不信が信頼へと変わる喜びが映画的経験にはあって、もうこれはひどい話なんじゃないか、見たあとうんざりするんじゃないか、感情を振り回されて疲れ果てるんじゃないかという疑いとともに進んでいくと、うわー!!最高じゃないか!!なんてことだーー!!!っていう歓喜に変わる。最初から大丈夫だよと言われてるとそういう振り回されは起こらないから、ディズニー映画とかはもうその時点で、損してるよね。韓国映画はどんな弾が飛んでくるかわからない怖さがあるのでかなりハラハラした。これはカンヌ映画祭で見て十分間のスタンディングオベーションに参加したい人生だった。

映画の内容も不信が信頼へと変わる喜びについて描いている。不信、不信、不信。しかし泥沼の中に美しい花が咲く。純粋さ、素朴さ、勇気が勝利する世界を入り組んだ構成で正面から豪速球で投げる。こんなことができるんだな。ふつう寓話のようになってしまうことを恐れる。でも情熱をもってそれをやる。寓話と言えば寓話なのだ。おとぎ話のような世界観だ。ただしエロくてグロくてサスペンスフルな、本来の意味でのおとぎ話だ。

あーー素晴らしいものって思考の必要がないんだ。賞賛はバカっぽい。けどそれが賞賛だ。正真正銘の。

何も言うことはないし、言葉を尽くす必要もない。すでにすべて映画が語っている。スタンディングオベーションというのは便利だ。

過去も未来もいらない

ハッピーさんが「未来を捨てろ」というかっこいい発言をしていて、かっこいいし、わかりやすいな、と思っていた。別の日、子宮委員長が「あなたが捨てたいものは?」と質問していて、「うーん、過去」と思った。過去も未来もいらない。

過去といえばノートを捨ててしまうので、日記的なものはほとんど直近の半年分くらいしか残ってない。手帳のたぐいも去年のものも捨てるので、いつどこに旅行したとかもわからなくなる。調べようと思えば誰かが知っている。でもどうせ聞いても忘れてしまう。

自己啓発本などを読むと、「ノートは大事。なんでもメモってとっておこう、ヒントがいっぱい詰まった宝物だよ」的なことが書かれてて、ノート自体はほっといても書くのでそうかーと思ってとっておくのだけど、だいたい読み返すと、おもしろいと思うこともあるけど、そこに漂う淀みにどっと疲れる。私のノートはアイデアとかそういう爽やかなもので構成されていないし、特に活かせた経験もない。だいたい過去に思いついたことでそのときやらなかったことを、いまさらやる気がしないし、過去の自分に全然期待ができない。

それで数ヶ月に一度、身にまとわりつく重さを感じて捨てる。昔は本の引用が見つからなくて困ったりしたけれど、インターネットのおかげでだんだんそれも減ってきた。

思考をやめていくとノートはどうなるだろう。ドロドロしなくなるのか。書かなくなるのか。でもブログは書いている。なぜかわからない。なんとなく出してしまいたい気分で書いている。別に深い意味はない。映画のレビューとかはどうなるんだろう? 過去のブログの記事はほとんど全部消したくなる。それもあんまりかと思ってまだ多少残してはいるが……。

私が過去を捨てたいとやたらに思うのは未来に未練があるからだと思う。過去も未来もいらないと本当に心から思えたらどれくらい心が軽くなるだろう。それはちょっと楽しみだ。

「インナーゲーム」と思考を停止すること

引き続き、「思考を止める」を続けている。思考が始まるが、止める。ところで止めると書いてあると「やめる」ではなく「とめる」と読んでしまうし、「止める」と書く時も「とめる」と打っている。どっちなんだろう。どっちでもいい。

そういえば、思考停止の方法論は「インナーゲーム」のセルフ1を黙らせるのに似ていると思ったんだった。

すべてのことを行っているのはセルフ2なのに、いつもセルフ1がでしゃばって、ああでもないこうでもないとべちゃくちゃおしゃべりというか自己批判を止めないので、セルフ2は緊張してことを仕損じたりしてしまう。

対策としては元はテニスの教本なので、「(飛んでくる)テニスボールの縫い目を見る」とかテニスボールが地面を打つたびに「バウンス」、ラケットに当たるたびに「ヒット」と声をだすとか。これはほんとにすごくて、テニス初心者でもこれをやるとできてしまう。実際に甥っ子とテニスをやってみたらできた。驚くことに初めて打ったサーブもきれいに入った(1度目だけでそのあとは欲が出たのかダメだった)。身体はこの私(批判好きのセルフ1)が頭で考えて命令して動かしているわけじゃない。

「インナーワーク」を読みたいのだけど絶版でバカ高いので買う気にならない。「インナーゲームオブストレス」はあまりいい本ではなかった(別の人がほとんど書いてる)。「インナーゴルフ」を買ってみたが、まだ読んでない。でもこれは分厚いし、W.T.ガルウェイがちゃんと書いてるっぽい。ゴルフに興味がないからか。そのうち読もう。

とにかく考えるということは無駄。無駄というか、害悪、というのが真実のようだなあと予感はしている。試してみればわかる。考えないというのが最強ぽい。そのうち確信するだろう。

 

思考を停止する

昨日から「思考の解放・思考停止」というサイトを読んで、思考を止めることを実践している。といっても思考は次々に出てくるし、振り回されっぱなしで二日目は終わろうとしているけれどそういう思考も止める。

この記事も書くにはもう少し続けてみてからにしようかと思ったけれどそれについても考えるのをやめて書くことにした。何度も「書いてみようか」という思考が出てきたし現に書いているので書いているという感じだ。

もし自分の選択や行動に責任を負わなくていいとしたらどんなに気楽だろう。

振り返ってみれば考えても仕方がないことばかりだったし、人生はなるようになって、「あのときよく考えて決めてよかった」というような経験はまず思い浮かばない。何が熟考による選択で、何が考えなしの選択だったかという判別も難しい。

よかったなあと思いがちなのは勢いでやったほうだけれど、それはそのスリルが思い出に深く刻まれてるためじゃないかという気もする。まあこれもどうでもいい。

考えても考えなくても同じじゃないか、というのはあまりにも身も蓋もないけれどおそらく真実だ。

偉大な発明とか数学的思考とかはここでいう「考える」とは別のことのような気がする。クリアな空間で秩序が自律する思考のと、ノイズを撒き散らすような思考との違い……といっても、よくわからないからこれについての思考もやめる。

とにかく思考は湧いてくるのだけどそれを深追いするのをやめるだけでだいぶ気楽に、気が軽くなる。本当に気楽になってるのか? という思考が湧いてくるのでそれもやめる。

映画はまた危うく始まりそうに…「私の少女」

※うっすらとネタバレしています。

見終わった時にはこんなのってありかぁーと放心状態だったのだけれど、感想を検索してある仔細な評論を読んで、その全てに同意するわけではないし理解できている自信もないのだけど、「ああ、そうだった映画とはこういうものだった」と思い直して、相当な傑作を見たという感動があとからじわじわと広がった。

「映画とはこういうものだ」というのは、「現実の正しさを超えた映画的正しさが存在する」というようなことで、そんなこと当たり前だろうと言われそうだけど、ここでいう正しさは法や倫理という意味ではない。そういう外側の正しさを破ることはどんな映画でももちろん常に起こっている。けれど、それらの映画がどこに向かうかといえば内面的幸福とか充実という第二の(というかいわゆる本当の)正しさだ。

でもこの映画は結局、どうもそこじゃないところ向かって進んでいく。主人公の内面的充実には向かわない。つまり、地獄へ向かって終わる(ように見える)。主人公は担えない重荷を背負って進もうとする。予感は不吉で不穏だ。しかしそれでいい。

だからこそ終わりの場面で、映画はまた危うく始まりそうな素振りを見せることができる。それこそが映画的正しさであり、映画は人間のすべてを肯定するための映像なのだった、と久々に思い出す。(そう思い出す前に私が思ったのは、「連れてっちゃだめー」というマヌケな感想だ。あるいは映画の半ばでは「オーストラリア行きなよ〜!」と心から思った。友達にならそう言うべきだが、それでは映画にならない。)(オーストラリアといえば、元カノの妙に色っぽい存在感に感動した。だからこそ「オーストラリア行きなよ!!」と思った。(2回目))

ペ・ドゥナは、ガリガリの棒切れのような体に警察署長の服をまとってそこに立つだけで、強さと弱さの危ういゆらぎを表現できてしまう。私はペ・ドゥナの作品を見るのはなんと今回が初めてで、恐れ入りましたとひれ伏した。かっこいい。うまい。最高。しびれる。憧れる。

それから、この映画には女に対する幻想抜きのエロスが、少女を題材にしているから緊張感と危うさを伴いながらしかし明確に描かれている。それはふわふわキラキラしたものでもなければ、欲望が炸裂するようなものでもなく、もっと生理的な皮膚感覚あるいは喉の渇きに近いもので、たとえば「ウンギョ」の少女に投影されたものとは遠く離れたところに存在している。もっと女性監督による映画が作られるといいなと思う。

私の少女(2014)
監督 チョン・ジュリ
出演 ペ・ドゥナ、キム・セロン