投稿者「nemoto」のアーカイブ

「インナーゲーム」と思考を停止すること

引き続き、「思考を止める」を続けている。思考が始まるが、止める。ところで止めると書いてあると「やめる」ではなく「とめる」と読んでしまうし、「止める」と書く時も「とめる」と打っている。どっちなんだろう。どっちでもいい。

そういえば、思考停止の方法論は「インナーゲーム」のセルフ1を黙らせるのに似ていると思ったんだった。

すべてのことを行っているのはセルフ2なのに、いつもセルフ1がでしゃばって、ああでもないこうでもないとべちゃくちゃおしゃべりというか自己批判を止めないので、セルフ2は緊張してことを仕損じたりしてしまう。

対策としては元はテニスの教本なので、「(飛んでくる)テニスボールの縫い目を見る」とかテニスボールが地面を打つたびに「バウンス」、ラケットに当たるたびに「ヒット」と声をだすとか。これはほんとにすごくて、テニス初心者でもこれをやるとできてしまう。実際に甥っ子とテニスをやってみたらできた。驚くことに初めて打ったサーブもきれいに入った(1度目だけでそのあとは欲が出たのかダメだった)。身体はこの私(批判好きのセルフ1)が頭で考えて命令して動かしているわけじゃない。

「インナーワーク」を読みたいのだけど絶版でバカ高いので買う気にならない。「インナーゲームオブストレス」はあまりいい本ではなかった(別の人がほとんど書いてる)。「インナーゴルフ」を買ってみたが、まだ読んでない。でもこれは分厚いし、W.T.ガルウェイがちゃんと書いてるっぽい。ゴルフに興味がないからか。そのうち読もう。

とにかく考えるということは無駄。無駄というか、害悪、というのが真実のようだなあと予感はしている。試してみればわかる。考えないというのが最強ぽい。そのうち確信するだろう。

 

思考を停止する

昨日から「思考の解放・思考停止」というサイトを読んで、思考を止めることを実践している。といっても思考は次々に出てくるし、振り回されっぱなしで二日目は終わろうとしているけれどそういう思考も止める。

この記事も書くにはもう少し続けてみてからにしようかと思ったけれどそれについても考えるのをやめて書くことにした。何度も「書いてみようか」という思考が出てきたし現に書いているので書いているという感じだ。

もし自分の選択や行動に責任を負わなくていいとしたらどんなに気楽だろう。

振り返ってみれば考えても仕方がないことばかりだったし、人生はなるようになって、「あのときよく考えて決めてよかった」というような経験はまず思い浮かばない。何が熟考による選択で、何が考えなしの選択だったかという判別も難しい。

よかったなあと思いがちなのは勢いでやったほうだけれど、それはそのスリルが思い出に深く刻まれてるためじゃないかという気もする。まあこれもどうでもいい。

考えても考えなくても同じじゃないか、というのはあまりにも身も蓋もないけれどおそらく真実だ。

偉大な発明とか数学的思考とかはここでいう「考える」とは別のことのような気がする。クリアな空間で秩序が自律する思考のと、ノイズを撒き散らすような思考との違い……といっても、よくわからないからこれについての思考もやめる。

とにかく思考は湧いてくるのだけどそれを深追いするのをやめるだけでだいぶ気楽に、気が軽くなる。本当に気楽になってるのか? という思考が湧いてくるのでそれもやめる。

映画はまた危うく始まりそうに…「私の少女」

※うっすらとネタバレしています。

見終わった時にはこんなのってありかぁーと放心状態だったのだけれど、感想を検索してある仔細な評論を読んで、その全てに同意するわけではないし理解できている自信もないのだけど、「ああ、そうだった映画とはこういうものだった」と思い直して、相当な傑作を見たという感動があとからじわじわと広がった。

「映画とはこういうものだ」というのは、「現実の正しさを超えた映画的正しさが存在する」というようなことで、そんなこと当たり前だろうと言われそうだけど、ここでいう正しさは法や倫理という意味ではない。そういう外側の正しさを破ることはどんな映画でももちろん常に起こっている。けれど、それらの映画がどこに向かうかといえば内面的幸福とか充実という第二の(というかいわゆる本当の)正しさだ。

でもこの映画は結局、どうもそこじゃないところ向かって進んでいく。主人公の内面的充実には向かわない。つまり、地獄へ向かって終わる(ように見える)。主人公は担えない重荷を背負って進もうとする。予感は不吉で不穏だ。しかしそれでいい。

だからこそ終わりの場面で、映画はまた危うく始まりそうな素振りを見せることができる。それこそが映画的正しさであり、映画は人間のすべてを肯定するための映像なのだった、と久々に思い出す。(そう思い出す前に私が思ったのは、「連れてっちゃだめー」というマヌケな感想だ。あるいは映画の半ばでは「オーストラリア行きなよ〜!」と心から思った。友達にならそう言うべきだが、それでは映画にならない。)(オーストラリアといえば、元カノの妙に色っぽい存在感に感動した。だからこそ「オーストラリア行きなよ!!」と思った。(2回目))

ペ・ドゥナは、ガリガリの棒切れのような体に警察署長の服をまとってそこに立つだけで、強さと弱さの危ういゆらぎを表現できてしまう。私はペ・ドゥナの作品を見るのはなんと今回が初めてで、恐れ入りましたとひれ伏した。かっこいい。うまい。最高。しびれる。憧れる。

それから、この映画には女に対する幻想抜きのエロスが、少女を題材にしているから緊張感と危うさを伴いながらしかし明確に描かれている。それはふわふわキラキラしたものでもなければ、欲望が炸裂するようなものでもなく、もっと生理的な皮膚感覚あるいは喉の渇きに近いもので、たとえば「ウンギョ」の少女に投影されたものとは遠く離れたところに存在している。もっと女性監督による映画が作られるといいなと思う。

私の少女(2014)
監督 チョン・ジュリ
出演 ペ・ドゥナ、キム・セロン

チョン・ジヒョンの哀しい背中「ベルリンファイル」

どういうわけか気が重くて感想を書けないでいたのは、チョン・ジヒョン演じる大使館通訳職員が「接待」を行うシーンのためだろう。実際にはそのシーンは描かれないにもかかわらず、どうもそのことを思い出して疲れてしまう。独裁者による恐怖政治の下では命も簡単に奪われる一方で、こうした命に関わらないが魂を踏みにじられるような出来事が頻繁に起こり、女性や子供が安易に被害者となる。問題は、悪人とまでいえない者がそうした行為に手を染めて平然としており、被害者もまた変わらぬ日常をなんとか続けることで自己を保とうとする点だ。声をあげることができない。

悪人ではないふつうのひとですらそうなのだから、悪人の悪辣さは救いようがない。映画はエンターテイメントとして作られており、悲惨すぎ、残忍すぎるものは映らないし、ほのめかされもしない。クライマックス直前、彼らはある種不自然なほど紳士的に振る舞うが、現実はもっと容赦がないだろう。そのことが予感されて映画の外で暗澹たる気持ちになる。

さすがにこの映画では、「暗殺」でも見ることのできたファッショナブルなチョン・ジヒョンは見られない。ブラウスもコートも安っぽく、ベルリンの街で寒々しく時代錯誤的に映る。美しさは残酷な予感を掻き立てる。

北朝鮮人の暗澹たる役柄を演じながらチョン・ジヒョンはいくつかのシーンでいつものようにはっとさせる。幼い子供を亡くし、身をやつしながら現在の生活を続ける女が、疑いにまみれ疲れきって、薄暗い部屋で夫を見上げ、何事かつぶやくとき。腹を撃たれ血を流し、夫の腕に抱かれながら、ようやく本心を伝えるとき。この女に幸福があるなら、たしかに夫の胸のうちで、回復された信頼のなかで、死んでいくことだろうと思わせる。チョン・ジヒョン演じる女の生の温かみを感じることのできた唯一のシーンが、この死の場面だった。

なおハ・ジョンウが「暗殺」につづいて極めていい男の役であり、この人がキム・キドクの「絶対の愛」の男だとようやく知って、年のとり方に感嘆した。

ちなみに「10人の泥棒たち」、「暗殺」、「ベルリンファイル」と2010年代のジヒョン出演作を三作続けて見たうちで、一番映画として飽きさせず、よくできているのがこの「ベルリンファイル」だ。だが、不思議なことにまた見たいと思うのは、この作品でも、ジヒョンの出番も見どころも多い「暗殺」でもなく、最も予定調和で退屈もした「10人の泥棒たち」だ。

なぜなら「10人の泥棒たち」のチョン・ジヒョンはいつものように笑わせてくれるから。「ベルリンファイル」も「暗殺」も、明確にエンターテイメント作品として作られ、満足のゆく仕上がりであるにも関わらず、そこには克服しがたい現在進行系の哀しみが刻まれている。

血みどろの夏帆「東京ヴァンパイアホテル」

返り血を浴びながら、ヴァンパイアたちをぶった切っていく強い夏帆を見るだけでも楽しめる作品。というかそれが楽しめないと楽しめないかもしれない作品。女がぶっ飛ばされても全然死なず何度でも復活する感じはとてもよい。

ヴァンパイアホテルでの血みどろの争いや、恐ろしいグロテスクなホテルの内側を見ると撮影の苦労がしのばれる。アマゾンプライムビデオの潤沢な予算があるとはいえ、大量の出演者たちをコントロールして、血糊をぶちまけ、アクションあり、ほぼヌードのヌルヌル祭りありで、どれほど大変なことだったろう。そのうえルーマニアロケも敢行。この制作現場には絶対関わりたくないと思わされる。過酷さが画面から血のようににじみあふれ流れ出ている。

ルーマニアでのドラキュラ化する前の夏帆とルーマニア女子との恋愛が山椒のようにぴりりと効いている。ルーマニア語を無理やり話す夏帆もよい。かなり話せている感じがする(適当)。

わけのわからないまま血糊の吹き出す勢いで全10話だかが進むストーリーの救いは、ガールミーツガールというのか、女を救うのは女というのを徹底していたところで、男はひどいしほとんど出番がない。救うのはいつも夏帆で、鬼みたいになってしまった子も、ルーマニア人の彼女も、終盤唐突に未来への希望として登場する少女も、思えば全員救ったのは夏帆だった。夏帆はやたらかっこいい役どころで、すべてもっていくのだから、園子温による夏帆への「みんなエスパーだよ」についての贖罪だったのか。(「みんなエスパーだよ」はヒロインが二人いるとかなり世界がややこしくなることを明らかにした問題作だ。ヤンキーで三河弁の夏帆はとんでもなく素晴らしいヒロインだったのに、もうひとりのハロプロ系ヒロイン真野恵里菜との比重でなにがなんなんだか役割がわからないことになっていた。)ただ、血まみれの撮影は大変だったから結果的にプラマイゼロあるいはマイナスで贖罪にはなっていないような気がする。私が夏帆なら、園子温監督の仕事は怖いので次からはよく考えると思う。冨手麻妙さんも大変だったろうけど、先に狂ってしまえ!という感じの開きなおり感で園に打ち勝つ。

Kの髪型はインテグレートというかすごくレオンのマチルダ。マチルダは日本女性にどんだけのインパクトを残しんたんだろう。遠い目。あれって、そういえば、ナタリー・ポートマンなんだよね!って、思い出してびっくりするくらいに別のものになっている。マチルダはマチルダで生きて、大人になってる気がする。それくらい存在がくっきりしている。

ところで夏帆の役名がKというのは、夏帆のKで仮名のままだったのかね。

そういえばホテルの廊下の感じがどことなくキューブリックのシャイニングみたいだった。

 

トーシャ・シルバーの本

8月の終わりごろだったかに読んで、なんか自分の向きが変わった気がした2冊の本を紹介します。

第一弾『とんでもなく全開になればすべてはうまくいく』

『とんでもなく全開になればすべてはうまくいく』の方は、前から存在は知っていました。でも表紙の神秘に満ちたイラストが、手にとるのを躊躇させていて…ただなぜかそのときはふと手に取ったんですよね。多分タイトルに惹かれたんです。

想像ではいろんなメソッドがぎっちり細かく書かれてるのかなとか思ったんですが全然違ってて、実際はロスの占い師のエッセイって感じです。すごく気楽に読めます。明るくて、読み物としておもしろい。

基本的には自分でなんとかしようと悪戦苦闘することなんてないよっていう話です。

「神なしでは」ゲームがわかりやすいです。

「こんな経済状況ではまっとうな仕事を見つけるのは無理だ(神なしでは)」

「あそこでは駐車スペースは絶対に見つからない(神なしでは)」

実際には神がいるから、召喚しなよって話です。ユー、神にゆだねちゃいなよ。

ほかに印象なのは、「来たいものを来させてください。去りたいものは去らせてください。」という祈り。何度も繰り返し出てきます。

「来たいものを来させてください。去りたいものは去らせてください」「もしそれが私のものなら、ここに留まります。そうでないなら、何であれもっと良いものが代わりにやってきます」

 

神の秩序を呼び入れれば、何も心配することはない。すべてはすでに最高のものが選ばれているのだから、神にまかせよう、という考えです。

私の完璧な新しい道はすでに選ばれていて、正しいタイミングでやってきます。私はそれを受け取るべくステップを示されます。

友人や自分自身の楽しいエピソードとともに、何度もそう言われているうちに、気がラクになります。

神よ、私をひらいてください。たった今知るべきことを受け入れられるように。あなたが望む変化を受け入れられるように。

 

と、ここまでが第一弾の『とんでもなく全開になればすべてはうまくいく』です。

第二弾『私を変えてください』

第二弾は『私を変えてください』です。第二弾の翻訳が出たということは、一冊目は日本でも結構売れたんでしょうか。私も一冊目を読んで気をよくしたので、すぐに二冊目を読み始めました。

基本的に言ってることは同じです。でも、二冊目には祈りがたくさんあって、とてもいいです。より明確になっているような感じです。それに、作者のトーシャシルバーさん自体が、一冊目の本を出して成功しているので、より自信をもっている感じです。

「私を変えてください」という祈りは、人には どうしても、神がすべて完璧にとりはからってくれているということが受け入れられないときがあるからこそ、というか、普通はそうです。だからがんばってきたのだし、苦労してきたわけですから。だからこそ、「私を変えてください」なのです。

神を信頼できるものに私を変えてください。愛を受け入れられるものに、神が自分を愛するように自分自身を愛するものに、変えてくださいという、祈り。まずは、神にゆだねられる自分になれるように祈るのです。そしてある意味、それだけで充分なわけです。

私を力ずくで奪って、意のままにしてください。私はあなただけのものです。ただ私を力ずくで奪って、意のままにしてください。私をあなたのものにしてください。あなたは私のものです。私たちはひとつです。すべてはうまくいっています。

一冊目よりももっと、明確に、全面的な降伏の表現になっています。

それと、「いいえ」と断る力の大切さや、会ったあとすっかり疲れてしまう人とは関わらないようにといった現実的な教えもあります。

スピリチュアル街道で求められがちなある種の聖人のイメージに縛られる必要はないこと。それは、去るものは去らせるという祈りと通じるものでしょう。誰だって、自由なのです。自分だけ例外にすることはありません。去りたいところからは去りましょう。

乞うようにして誰かの感心を引く必要は、絶対にないのだ(…)歓迎されるところにいけばいい

たとえ誰かに世界最低のアイディアだと決めつけられても、それが起こることを神が欲しているならば―そして、余すところなく神に捧げられるならば―たしかに起こる。

 

私が読みがちなスピ本のなかでは異色ですが、すごくおすすめの2冊です。

自分と経験の境界線?『ただそのままでいるための超簡約指南』再読

続・プチ非二元ブームで、今度はこちらの本を再読した。

以前にもこの本については紹介記事を書いているけれど、今回は全然違う観点から見てみる。というか、正直言うと、前の記事を今読んでみても、ぴんとこなかった。まあ、そういうものだ。

『ホームに私はいない』と同じように、この本でも私はいないということを見るけれど、ダグラス・ハーディングの実験とは少し違う。

自分と経験のあいだの違いをぼやかすことはできるのだろうか? 実際にはどこを見てもそんな境界線は見つからないことに気づくんじゃないだろうか。経験をただ見て、境界や概念をそこにつけ加えないでいると、面白いことが起こる。

ありがたいことに、自分という感覚がいつでもあるわけじゃないと気づくこともできる。自分という感覚がなく、ただ意識、経験、「これ」だけがある瞬間に気づく──しっかりと見つめる──ことができる。このあと、そういう瞬間のいくつかを見てみよう。でも今のところは、わたしたちは経験を自分と自分じゃないものに不自然に分けている(ときにはそれが役立つことがあるとしても)ということだけ言っておこう。自分と自分じゃないものの境界線は、そんなにはっきりしていないのではないだろうか。体は自分? 吸い込んでいる空気は?

たとえば、自分が呼吸しているのか、自分を呼吸しているのか、自分に呼吸しているのか。どれでもいいような感じがする。自分と呼吸の関係はそんなにはっきりしたものだろうか。私という人間がいて、呼吸という行為がある。その区切りかたもそうだ。もし、どうも呼吸と自分が別ものとは言えない感じがしてきたら、空気はどうなんだろう。呼吸は空気と別ものじゃないとしたら、空気と私も別ものじゃないことになる。私が、空気を、吸っている。こんなふうに考えることは、ものすごく不自然だという気がしてくる。

花ならどうだろう。花は咲くけれど、「花は、咲く」んだろうか。花と咲くことは分けられるのか。花は枯れるけれど、花と枯れるは分けられるんだろうか。

経験をただ見ているとき、経験をよく観察しているとき、そこにどんな自分も見いだすことはできない。実際、経験を取捨選択しないで注意深く見守っていれば、ゆっくりとわかってくる。誰も存在していなかったんだと。

だから、

すべての経験が目覚めの経験だ。十分に注意深く見てみれば、どんな経験も真実を示していることがわかる

 

「私がいない」ということはそんなに大切なことだろうか。大切なことだ。「私が生きている」と思うことで、私たちは「生から何かを得る」という地獄のようなゲームに夢中になっている。そこでは当然、私と生は切り離されている。だから私は生から何かを得なければならないのだ。でも、生と切り離された私は一体どこにいるんだろうか? 生という経験に外なんてあるのだろうか?

生からは何も得られない。生から何かを持ち出せるような外側は存在していない。生の蓄えをかすめ取って貯めこんでおけるような小さなポケットが生の外側についているなんてことはない。この瞬間の生に、外側などない

生からは何も得られない。私が生だからだ。

そうすると、生から何かを得ようとする試みである欲求とか望みとか空想とかも不思議なものに思えてくる。

空想は楽しい。空想は離れ小島に似てもいる。空想は、現実の親密さから離れて一休みしよう、という実現不可能な試みで構成されている。空想はたいてい、本当の親密さを遅らせること、もしくは妨げることをおもな目的としている。だからわたしはときどきこういう空想のことを「疎外欲求」と呼ぶ。生からリアリティを奪い去る欲求は、どれもが疎外欲求だ。でも実際のところ、それは本当に欲求なのだろうか? それが「実現する」のをわたしたちは本当に望んでいるだろうか。もしかして、それは単に欲求のための欲求、つまり欲求の中にとどまっていたい、欲求の対象から隔たった状態にありつづけたいという欲求だということはないだろうか。

 

まあちょっとよくわかってないのにイキって書いた部分もあるけど、今日のところはここまで。

非二元界のハードボイルド『オープンシークレット』再読

『ホームには誰もいない』からプチ非二元ブームが始まって、思わず『オープンシークレット』を再読した。トニーパーソンズの言葉は『ホームには…』でもたびたび言及され、引用される。

ひさびさに読んで思ったのは、トニーキレキレやな、ということだ。トニー・パーソンズ、非二元界の北方謙三である(違)。

私の観念は切望や欲求不満から生まれた煙幕であり、夢という休暇を与えてくれる。それはいつでも安全で予測可能であり、既知のものへの耽溺だ。

観念が崩壊するとき、あるのはそこにあるものだ。私の身体感覚があって、交響曲が奏でられている。美しい調べであるとはかぎらないが、それは絶えず変化し、動き、現れては消えていく。何かがあちらこちらで起こっている……そして消滅し、別のものに置き換わる。管理したり、操ったりできるものは何もない。それは計り知ることのできない未知のものであり、存在すると思えば、存在しなくなる。

私という存在は弱さを恐れながらコントロールを追い求め、親密さを恐れながらよそよそしさを追求し、従属を恐れながら優勢を保とうと努め、平凡であることをもし恐れていれば特別であろうとする。

ハードボイルド…。「そうじゃない側」についての言及は、まるで的の真ん中を撃ち抜く銃弾である。

目的、希望、信念は、活力と成功への意志を私に与えた。目的、希望、信念──極めて価値あるものとして多くの人たちに認められている、この崇拝の対象、一見説得力のある価値観……。だが当然ながら、その多くの人たちは混乱、絶望、疑念という影のなかでも生きている。

時間の世界のなかでは目的と目標は完璧に適切であるように見えるが、これになる、あれに所属する、変化に向けたプロセス、良い人間になる、浄化のメソッドなどといった目的と目標への忠誠と期待には、過剰な投資がなされている

今よりも良い状況を見つけようとして時間のなかで突進しているとき、毎瞬姿を現している「存在すること」という花を、私たちは踏みつけている

目的に対する私たちの執着は、自分に対して何かを証明したいという必要から生じているのではないかと思う。だが生は単純に生であって、何かを証明しようとしているわけではまったくない。

いちいちキレがあり、しびれるかっこよさなのである。(特にかっこいいところに下線を引いた。)

もうひとつあった。

思考が時間のなかでもっぱら行っているのは、つかみ、分割しながら、満足あるいは災難に向けた前進という観念を絶えず生み出し続けることだ。思考は邪魔をし、秩序について語り、約束をし、破壊について話す。

「思考は邪魔をし、秩序について語り、約束をし、破壊について話す」……もはや文学だ。

 

この本については以前も記事を書いているけれど、見返してみると中身にあまり触れていない。というわけで、中身ついて軽く。

本の最初と最後に同じことが書かれている。

最初の方

悟りは自分の生き方を変えようとする努力、さらには生を少しでも違ったものにしようとする努力すらも絶対的に超えたものだという認識も含まれていた。悟りは、生きているのは何なのかということに関する認識が全面的に転換することと関係している。

最後の方

この公然の秘密は自分の生き方を変える努力とは関係がないからだ。これは、生きているのは何なのかを再発見することと関係している。

では生きているのはなんなのか。それについては本書をよんでほしい。

LINE STAMP©nemotonemo

といいつつ、少し引用を続けてみる。

自分とは本当は何なのかを認識するまでは、自分の恐れる対象が生のほとんどを突き動かしているということもありえる。  始まりと終わりがあるという信念を生み出すのは、恐れであるかもしれない。  自分自身を失うことに対する恐れは、生き残りと継続への衝動を永続させ、維持しかねないが、それは、もっとも強く望みながら何よりも恐れているのが自己の不在だからだ。

私でないものとは、私の人生の物語、心、体、気持ち、痛みや喜びの経験、苦闘、成功や失敗だ。私は孤独でも、静寂でも、欲求不満でも、慈愛でもない。私は自分の目的だと考えているものでも、探求でも、発見でも、スピリチュアルな経験と呼ばれるどのようなものでもない

このままでは引用だけで終わりそうだから、ヤボを承知でコメントする。私、自分、自己…なんでもいいが、これをなんだと思っているか。それが「生きているのは何なのか」という冒頭の問いだろう。ここに挙げられているような、物語、心、成功、孤独、目的といったものを普通は「私」だと思っている。でも不思議なことがある。これらは私の物語であり、私の心であり、私の成功、私の孤独、私の目的だろう。つまり私そのものじゃない。そのことを、私たち(どの私たち?←ヤンの真似)は、どこかで薄々気づいているのだろう。だからその不在を恐れながらも、望んでいる。

私たち(どの私たち?←略)は、この「私」というものを相当に恐れ、苦しめられ、エネルギーを注げるだけ注ぎこんで、疲れ果てている。自分とは、あたかも、主人公を苦しめ続ける死ぬほどいい女である。いなくなったらどうしようと恐れながら、頼むから消えてくれ…と願う。そして今夜もバーボンの空瓶が増える……

でも死ぬほどいい女が悪いわけじゃない。

見かけの上で起こった人生の物語は、それぞれの目覚めにとってこれ以上ないほど完璧に、適切なものだ。すべては今あるものとしてただある。何かもっと良いものになる可能性があるからではなく、ただあるからあるのだ。

というわけでいろいろあって、最終的にこうなる。

ありとあらゆるものとひとつになる、それが起こったことだった。自分がすべてとひとつになったとは言えないのだが、それは私が消えてしまっていたからだ。言えるのは、ありとあらゆるものとひとつになるということが起こり、圧倒的な愛がすべての部分を満たしたということだ。それと一緒に、全体の完全な理解がやってきた。こうしたことすべてが、時間を超越した一瞬、永遠のように感じられた一瞬の内に起こった。

 なんと、悪女の例えが偶然ここで生きてきた。

それはいつでもすぐ近くにあり、準備を整えて永久に待っている。呼びかければいつでもすぐに返事をしてくれる、忠実で誠実な恋人のように……

悪女より誠実な恋人がいいですね。