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ユーフィーリングのことなど

この半年くらい、何冊かの非二元本をぐるぐると回転するように再読しているので、どれがどうというのではなくて、全体的にまったりじわじわ感じ入っているけれど、メソッド的なもので、「これは」というのがDr.キンズローの「ユーフィーリング」だ。

何年か前にものすごく落ち込んでいるときにすがるような思いで読んだ時には(笑)、全然わからなかった。というか、「これがそうなの? ほんとに? これがユーフィーリング?! どうなの?」という感じだったので、ユーフィーリングもクソもなかった。

こういうものは遊び半分というか、関連のウェブサイトとか紹介記事を読んで「なんかいいな〜、いい感じがするな〜」と思ったら、ちょっと読んでみる、やってみる、くらいがいいのかもしれない。

そういえば今思い出したけど再読のきっかけが他の本にあったような気がする。『なにが起こっても、「絶対幸せ」でいる法』かもしれない。この本もかなり好きだ。そのなかで、これってユーフィーリングじゃね? と思い出して、読み返したような気がする。全然違うかもしれない。

非二元本数珠つなぎみたいな現象があって、これってあれみたいだなと連想してそれを再読する場合もあれば、無関係に前に読めなかった本が突如本棚で輝き出す場合もある。本棚の本がなんか目に留まるというのは大事で、そういうのは手にとって読み返すようにしている。それでピンとこない、相変わらず読めない場合もある(普通)。

ユーフィーリングというのは詳しくは本を読めばわかるけれど、「本来的に備わっている心地よさ」みたいなもので、それによく触れて気づいていると、だんだん生きるのが楽になってくる。気楽になる。気楽になってそれからどうなるの、って思うかもしれないけど、気楽であることは本当に、思う以上にいいものだ。

たしかに最初のうちは「ユーフィーリングを感じる→ああ気持ちいい→日常に戻る→しんどい→ユーフィーリング(きもちいい)→日常(しんどい)→」って感じかもしれないけれど、続けていると日常にもきもちよさが浸透してきて、バスや電車で、驚くほどリラックスしてる自分に気づいたりする。

「安らぎは当たり前なんだ、邪魔しなければそこにあるんだ」というのは、そうと知るまでは「まさか」という事柄だし、知ってしまえば当たり前のことだ。(だからといって、24時間安らいでいるわけではなくて、よく邪魔している。)

日本語の本は4冊出ていて、なぜか全部持っているが、『瞬間ヒーリングの秘密』以外ならどれでもいいんじゃないかと思う(『瞬間…』はヒーリングの施術法中心だから)。いきなり『ユースティルネス』に行ってもちゃんとユーフィーリングのことも書いてある。どうせ、はまれば全部読みたくなるし、はまらなければ一冊で終わりだから心配することはない。

QEコミュニティ

 

『最強の食事』のことなど

食べたいものを食べたいだけ食べようと思って1、2ヶ月インスタントラーメンやアイスを好き放題食べて気が済んだので、食生活の改善に乗り出したのが去年の12月頃のことだ。

最初は肉・卵・チーズ中心の「MEC食」というのを始めたけれど、どうも体が重い感じがしてだめだった。そのあと『最強の食事』という本を読んで、食べ物に関する考え方はガラッと変わった。個人の体験をもとにしたマニアックな本だからこそ、影響力がすごい。

それから8ヶ月くらいになるけれど、完全無欠コーヒーを軸に、低糖質、高脂肪、高たんぱく、野菜多めの食生活を守っている。結局、何を摂らないかが重要で、それがわかれば食べられるものは自然と絞られる。

私が完全にやめたのは、

  • 小麦(グルテン)
  • 悪いアブラ(ファットスプレッド、ショートニング、マーガリン、サラダ油ほか

なるべく摂らないようにしているのは、

  • 砂糖、果糖を主原料とした製品
  • 乳製品(バターを除く)
  • 穀物類
  • フルーツ(果糖)

こんなことをしてどうなるかというと、まず精神状態がよくなる。肌もくすみがとれてきれいになる(腸の荒れが収まるのだろう)。そもそも私は小麦アレルギーだったようで、頭皮ニキビの原因もこれだったし、小麦を食べるとすぐに異様なほどイライラすることが、段階的にやめていくなかでわかった。なのでもう全然食べていない。

砂糖をやめると明らかにむくみがとれる。そして朝の目覚めがよくなる。これまで頭というか全身がしょっちゅうぼーっとしていたことに気づく。私たちが空腹感と思っているものはたいてい、空腹ではなくて低血糖状態だ。糖質で血糖値を急上昇させなければ、それも起こらない。本当の空腹感は、礼儀正しく栄養補給を要求するもので、闇雲に食品棚を漁ったりはしない。血糖値が安定すると精神的に安定し、血管も守られるというメリットもある。

だんだんと自分の体がリトマス試験紙のようになっていくのがわかり、変なものを食べるとすぐに反応がある。これまでいかに雑音のなかで暮らし、メッセージを無視してきたかということだ。ちなみにビタミン・ミネラル系のサプリも併せて摂っている。

そんなこと出来ない、食べるものがなくなる、と思うかもしれないけれど、これはやってみると全然辛くない。むしろ、みんななんでやらないんだろうと思えるくらい快適な食生活だ。(だからといって強く推奨するわけではないが)

 

 

「インナーゴルフ」が素晴らしすぎた。

「インナーゴルフ」というかインナーゲームオブゴルフ。すごい大胆に端折った邦題だ。

とにかく素晴らしくて、線を引きまくり丸をしまくって読んだ。引用とかもうめんどくさいので、買って読んで下さい。本当に素晴らしいです。スピリチュアル系の本読んでる人からしたらわかる、わかるよ!ってなるし、かといって地上から数センチ浮いてない系の実用書なので、ふふふふふという感じでわくわくしてくる。とりあえずゴルフやりたくなる。

セルフ1を黙らせる。セルフ2を信頼して任せる。これってもう完全に「自分で何も考えない。潜在意識がすべてやってくれる」の世界観。一応基本はセルフ1が目標とかどうしたいかを決めるんだけど、途中からそれもセルフ2にやらせよう、ってなる。「もう私にはどうしたらいいかわからないので、君がやってくれ」的なことを言い出す。サレンダー。

やっぱり号泣したところだけ引用しよう。特別に。

これは、私の勝利だった。(…)私は幻想を打ち砕いたのだ。専制君主の支配から脱出することができたのだ。私はずっと長い間、その支配から逃れられなかった。いい結果を出したときにはいい気分と名誉が与えられ、失敗したときには自分を責め、無力感にさいなまれた。その褒美を目当てに、私は彼の奴隷となって、いつもいいショットを打とうとしてきた。けれどこのときの一打を境に、私は自分の内側の専制君主に決別し、独立を宣言したのだ。彼は私から真の喜びを奪い、芸術を奪い、彼が要求する結果を自ら邪魔だてしてきた。彼が私に与えてきたつもりの褒美は、実は現実ではなく、幻想の幸福に過ぎなかったのだ。私はボールに向かって歩きながら、そう考えた。私はこれでより強くなったのだとも思わなかった。自信がついたとも感じなかった。ただ単に、誘惑に強く、傷つきにくくなったのとだけ、感じることができた。

生きるって本当は純粋に喜びで、この身体を持ってさまざまなことを感じるということがそれ自体ものすごい僥倖、奇跡の瞬間の連続みたいなものなんだろうと思う。感じること、知覚すること、気づくことは同じことの繰り返しではありえない。不安定で不確か。だからこそ新鮮な喜びに満ちている。
生きるって要するにそういうことなんでしょ。

なのになぜかセルフ1とここで呼ばれる私たちの思考は、そこで安定を求め、同じことを繰り返そうとする。なぜ? 自分の存在意義を証明するためだ。生き延びるためだ。つまり本当はセルフ1は実在しない。自分が架空の存在だってことを知ってるんだ。Unicorn is Real, but self 1 is not real!!!

自分が一生懸命考えて批判して判断しているから安全が守られるんだよってことを証明することで、自分が実在しないことをごまかす。そのために、うまくいかないときは自分(セルフ2)を叱責し、うまくいってるときは自分(セルフ2)を疑うことをし続けた。なんて奴!!

でも、そもそもなんでそんなやつのいうこと聞かなきゃいけないんだ???? なんでそんなやつのいうこと聞いてきたんだ!!?? 非実在存在のいうことを真に受けて。

だいたいなんでもセルフ2がやってんだよ。呼吸も歩くことも、手を伸ばしてコップをとることも、ゴルフのスイングも、こうして文字を打つことだって。

ここで唐突にガルウェイのフォーミュラ。

P=p-i
パフォーマンス=ポテンシャル−インタフェア
(発揮する能力=潜在能力−妨害活動)

ワオ、ワオ、ワオという感じだ。シンプル真理すぎる。

セルフ1を黙らせて、セルフ2にすべてを任せる。それでも残る何かが「誠意」だったとガルウェイはいう。なんということだろう。

究極の誠意とは、もはや何も考えない状態に至ったとき、最後に残る「何か」のことだ。

 

「インナーゲーム」と思考を停止すること

引き続き、「思考を止める」を続けている。思考が始まるが、止める。ところで止めると書いてあると「やめる」ではなく「とめる」と読んでしまうし、「止める」と書く時も「とめる」と打っている。どっちなんだろう。どっちでもいい。

そういえば、思考停止の方法論は「インナーゲーム」のセルフ1を黙らせるのに似ていると思ったんだった。

すべてのことを行っているのはセルフ2なのに、いつもセルフ1がでしゃばって、ああでもないこうでもないとべちゃくちゃおしゃべりというか自己批判を止めないので、セルフ2は緊張してことを仕損じたりしてしまう。

対策としては元はテニスの教本なので、「(飛んでくる)テニスボールの縫い目を見る」とかテニスボールが地面を打つたびに「バウンス」、ラケットに当たるたびに「ヒット」と声をだすとか。これはほんとにすごくて、テニス初心者でもこれをやるとできてしまう。実際に甥っ子とテニスをやってみたらできた。驚くことに初めて打ったサーブもきれいに入った(1度目だけでそのあとは欲が出たのかダメだった)。身体はこの私(批判好きのセルフ1)が頭で考えて命令して動かしているわけじゃない。

「インナーワーク」を読みたいのだけど絶版でバカ高いので買う気にならない。「インナーゲームオブストレス」はあまりいい本ではなかった(別の人がほとんど書いてる)。「インナーゴルフ」を買ってみたが、まだ読んでない。でもこれは分厚いし、W.T.ガルウェイがちゃんと書いてるっぽい。ゴルフに興味がないからか。そのうち読もう。

とにかく考えるということは無駄。無駄というか、害悪、というのが真実のようだなあと予感はしている。試してみればわかる。考えないというのが最強ぽい。そのうち確信するだろう。

 

トーシャ・シルバーの本

8月の終わりごろだったかに読んで、なんか自分の向きが変わった気がした2冊の本を紹介します。

第一弾『とんでもなく全開になればすべてはうまくいく』

『とんでもなく全開になればすべてはうまくいく』の方は、前から存在は知っていました。でも表紙の神秘に満ちたイラストが、手にとるのを躊躇させていて…ただなぜかそのときはふと手に取ったんですよね。多分タイトルに惹かれたんです。

想像ではいろんなメソッドがぎっちり細かく書かれてるのかなとか思ったんですが全然違ってて、実際はロスの占い師のエッセイって感じです。すごく気楽に読めます。明るくて、読み物としておもしろい。

基本的には自分でなんとかしようと悪戦苦闘することなんてないよっていう話です。

「神なしでは」ゲームがわかりやすいです。

「こんな経済状況ではまっとうな仕事を見つけるのは無理だ(神なしでは)」

「あそこでは駐車スペースは絶対に見つからない(神なしでは)」

実際には神がいるから、召喚しなよって話です。ユー、神にゆだねちゃいなよ。

ほかに印象なのは、「来たいものを来させてください。去りたいものは去らせてください。」という祈り。何度も繰り返し出てきます。

「来たいものを来させてください。去りたいものは去らせてください」「もしそれが私のものなら、ここに留まります。そうでないなら、何であれもっと良いものが代わりにやってきます」

 

神の秩序を呼び入れれば、何も心配することはない。すべてはすでに最高のものが選ばれているのだから、神にまかせよう、という考えです。

私の完璧な新しい道はすでに選ばれていて、正しいタイミングでやってきます。私はそれを受け取るべくステップを示されます。

友人や自分自身の楽しいエピソードとともに、何度もそう言われているうちに、気がラクになります。

神よ、私をひらいてください。たった今知るべきことを受け入れられるように。あなたが望む変化を受け入れられるように。

 

と、ここまでが第一弾の『とんでもなく全開になればすべてはうまくいく』です。

第二弾『私を変えてください』

第二弾は『私を変えてください』です。第二弾の翻訳が出たということは、一冊目は日本でも結構売れたんでしょうか。私も一冊目を読んで気をよくしたので、すぐに二冊目を読み始めました。

基本的に言ってることは同じです。でも、二冊目には祈りがたくさんあって、とてもいいです。より明確になっているような感じです。それに、作者のトーシャシルバーさん自体が、一冊目の本を出して成功しているので、より自信をもっている感じです。

「私を変えてください」という祈りは、人には どうしても、神がすべて完璧にとりはからってくれているということが受け入れられないときがあるからこそ、というか、普通はそうです。だからがんばってきたのだし、苦労してきたわけですから。だからこそ、「私を変えてください」なのです。

神を信頼できるものに私を変えてください。愛を受け入れられるものに、神が自分を愛するように自分自身を愛するものに、変えてくださいという、祈り。まずは、神にゆだねられる自分になれるように祈るのです。そしてある意味、それだけで充分なわけです。

私を力ずくで奪って、意のままにしてください。私はあなただけのものです。ただ私を力ずくで奪って、意のままにしてください。私をあなたのものにしてください。あなたは私のものです。私たちはひとつです。すべてはうまくいっています。

一冊目よりももっと、明確に、全面的な降伏の表現になっています。

それと、「いいえ」と断る力の大切さや、会ったあとすっかり疲れてしまう人とは関わらないようにといった現実的な教えもあります。

スピリチュアル街道で求められがちなある種の聖人のイメージに縛られる必要はないこと。それは、去るものは去らせるという祈りと通じるものでしょう。誰だって、自由なのです。自分だけ例外にすることはありません。去りたいところからは去りましょう。

乞うようにして誰かの感心を引く必要は、絶対にないのだ(…)歓迎されるところにいけばいい

たとえ誰かに世界最低のアイディアだと決めつけられても、それが起こることを神が欲しているならば―そして、余すところなく神に捧げられるならば―たしかに起こる。

 

私が読みがちなスピ本のなかでは異色ですが、すごくおすすめの2冊です。

自分と経験の境界線?『ただそのままでいるための超簡約指南』再読

続・プチ非二元ブームで、今度はこちらの本を再読した。

以前にもこの本については紹介記事を書いているけれど、今回は全然違う観点から見てみる。というか、正直言うと、前の記事を今読んでみても、ぴんとこなかった。まあ、そういうものだ。

『ホームに私はいない』と同じように、この本でも私はいないということを見るけれど、ダグラス・ハーディングの実験とは少し違う。

自分と経験のあいだの違いをぼやかすことはできるのだろうか? 実際にはどこを見てもそんな境界線は見つからないことに気づくんじゃないだろうか。経験をただ見て、境界や概念をそこにつけ加えないでいると、面白いことが起こる。

ありがたいことに、自分という感覚がいつでもあるわけじゃないと気づくこともできる。自分という感覚がなく、ただ意識、経験、「これ」だけがある瞬間に気づく──しっかりと見つめる──ことができる。このあと、そういう瞬間のいくつかを見てみよう。でも今のところは、わたしたちは経験を自分と自分じゃないものに不自然に分けている(ときにはそれが役立つことがあるとしても)ということだけ言っておこう。自分と自分じゃないものの境界線は、そんなにはっきりしていないのではないだろうか。体は自分? 吸い込んでいる空気は?

たとえば、自分が呼吸しているのか、自分を呼吸しているのか、自分に呼吸しているのか。どれでもいいような感じがする。自分と呼吸の関係はそんなにはっきりしたものだろうか。私という人間がいて、呼吸という行為がある。その区切りかたもそうだ。もし、どうも呼吸と自分が別ものとは言えない感じがしてきたら、空気はどうなんだろう。呼吸は空気と別ものじゃないとしたら、空気と私も別ものじゃないことになる。私が、空気を、吸っている。こんなふうに考えることは、ものすごく不自然だという気がしてくる。

花ならどうだろう。花は咲くけれど、「花は、咲く」んだろうか。花と咲くことは分けられるのか。花は枯れるけれど、花と枯れるは分けられるんだろうか。

経験をただ見ているとき、経験をよく観察しているとき、そこにどんな自分も見いだすことはできない。実際、経験を取捨選択しないで注意深く見守っていれば、ゆっくりとわかってくる。誰も存在していなかったんだと。

だから、

すべての経験が目覚めの経験だ。十分に注意深く見てみれば、どんな経験も真実を示していることがわかる

 

「私がいない」ということはそんなに大切なことだろうか。大切なことだ。「私が生きている」と思うことで、私たちは「生から何かを得る」という地獄のようなゲームに夢中になっている。そこでは当然、私と生は切り離されている。だから私は生から何かを得なければならないのだ。でも、生と切り離された私は一体どこにいるんだろうか? 生という経験に外なんてあるのだろうか?

生からは何も得られない。生から何かを持ち出せるような外側は存在していない。生の蓄えをかすめ取って貯めこんでおけるような小さなポケットが生の外側についているなんてことはない。この瞬間の生に、外側などない

生からは何も得られない。私が生だからだ。

そうすると、生から何かを得ようとする試みである欲求とか望みとか空想とかも不思議なものに思えてくる。

空想は楽しい。空想は離れ小島に似てもいる。空想は、現実の親密さから離れて一休みしよう、という実現不可能な試みで構成されている。空想はたいてい、本当の親密さを遅らせること、もしくは妨げることをおもな目的としている。だからわたしはときどきこういう空想のことを「疎外欲求」と呼ぶ。生からリアリティを奪い去る欲求は、どれもが疎外欲求だ。でも実際のところ、それは本当に欲求なのだろうか? それが「実現する」のをわたしたちは本当に望んでいるだろうか。もしかして、それは単に欲求のための欲求、つまり欲求の中にとどまっていたい、欲求の対象から隔たった状態にありつづけたいという欲求だということはないだろうか。

 

まあちょっとよくわかってないのにイキって書いた部分もあるけど、今日のところはここまで。

非二元界のハードボイルド『オープンシークレット』再読

『ホームには誰もいない』からプチ非二元ブームが始まって、思わず『オープンシークレット』を再読した。トニーパーソンズの言葉は『ホームには…』でもたびたび言及され、引用される。

ひさびさに読んで思ったのは、トニーキレキレやな、ということだ。トニー・パーソンズ、非二元界の北方謙三である(違)。

私の観念は切望や欲求不満から生まれた煙幕であり、夢という休暇を与えてくれる。それはいつでも安全で予測可能であり、既知のものへの耽溺だ。

観念が崩壊するとき、あるのはそこにあるものだ。私の身体感覚があって、交響曲が奏でられている。美しい調べであるとはかぎらないが、それは絶えず変化し、動き、現れては消えていく。何かがあちらこちらで起こっている……そして消滅し、別のものに置き換わる。管理したり、操ったりできるものは何もない。それは計り知ることのできない未知のものであり、存在すると思えば、存在しなくなる。

私という存在は弱さを恐れながらコントロールを追い求め、親密さを恐れながらよそよそしさを追求し、従属を恐れながら優勢を保とうと努め、平凡であることをもし恐れていれば特別であろうとする。

ハードボイルド…。「そうじゃない側」についての言及は、まるで的の真ん中を撃ち抜く銃弾である。

目的、希望、信念は、活力と成功への意志を私に与えた。目的、希望、信念──極めて価値あるものとして多くの人たちに認められている、この崇拝の対象、一見説得力のある価値観……。だが当然ながら、その多くの人たちは混乱、絶望、疑念という影のなかでも生きている。

時間の世界のなかでは目的と目標は完璧に適切であるように見えるが、これになる、あれに所属する、変化に向けたプロセス、良い人間になる、浄化のメソッドなどといった目的と目標への忠誠と期待には、過剰な投資がなされている

今よりも良い状況を見つけようとして時間のなかで突進しているとき、毎瞬姿を現している「存在すること」という花を、私たちは踏みつけている

目的に対する私たちの執着は、自分に対して何かを証明したいという必要から生じているのではないかと思う。だが生は単純に生であって、何かを証明しようとしているわけではまったくない。

いちいちキレがあり、しびれるかっこよさなのである。(特にかっこいいところに下線を引いた。)

もうひとつあった。

思考が時間のなかでもっぱら行っているのは、つかみ、分割しながら、満足あるいは災難に向けた前進という観念を絶えず生み出し続けることだ。思考は邪魔をし、秩序について語り、約束をし、破壊について話す。

「思考は邪魔をし、秩序について語り、約束をし、破壊について話す」……もはや文学だ。

 

この本については以前も記事を書いているけれど、見返してみると中身にあまり触れていない。というわけで、中身ついて軽く。

本の最初と最後に同じことが書かれている。

最初の方

悟りは自分の生き方を変えようとする努力、さらには生を少しでも違ったものにしようとする努力すらも絶対的に超えたものだという認識も含まれていた。悟りは、生きているのは何なのかということに関する認識が全面的に転換することと関係している。

最後の方

この公然の秘密は自分の生き方を変える努力とは関係がないからだ。これは、生きているのは何なのかを再発見することと関係している。

では生きているのはなんなのか。それについては本書をよんでほしい。

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といいつつ、少し引用を続けてみる。

自分とは本当は何なのかを認識するまでは、自分の恐れる対象が生のほとんどを突き動かしているということもありえる。  始まりと終わりがあるという信念を生み出すのは、恐れであるかもしれない。  自分自身を失うことに対する恐れは、生き残りと継続への衝動を永続させ、維持しかねないが、それは、もっとも強く望みながら何よりも恐れているのが自己の不在だからだ。

私でないものとは、私の人生の物語、心、体、気持ち、痛みや喜びの経験、苦闘、成功や失敗だ。私は孤独でも、静寂でも、欲求不満でも、慈愛でもない。私は自分の目的だと考えているものでも、探求でも、発見でも、スピリチュアルな経験と呼ばれるどのようなものでもない

このままでは引用だけで終わりそうだから、ヤボを承知でコメントする。私、自分、自己…なんでもいいが、これをなんだと思っているか。それが「生きているのは何なのか」という冒頭の問いだろう。ここに挙げられているような、物語、心、成功、孤独、目的といったものを普通は「私」だと思っている。でも不思議なことがある。これらは私の物語であり、私の心であり、私の成功、私の孤独、私の目的だろう。つまり私そのものじゃない。そのことを、私たち(どの私たち?←ヤンの真似)は、どこかで薄々気づいているのだろう。だからその不在を恐れながらも、望んでいる。

私たち(どの私たち?←略)は、この「私」というものを相当に恐れ、苦しめられ、エネルギーを注げるだけ注ぎこんで、疲れ果てている。自分とは、あたかも、主人公を苦しめ続ける死ぬほどいい女である。いなくなったらどうしようと恐れながら、頼むから消えてくれ…と願う。そして今夜もバーボンの空瓶が増える……

でも死ぬほどいい女が悪いわけじゃない。

見かけの上で起こった人生の物語は、それぞれの目覚めにとってこれ以上ないほど完璧に、適切なものだ。すべては今あるものとしてただある。何かもっと良いものになる可能性があるからではなく、ただあるからあるのだ。

というわけでいろいろあって、最終的にこうなる。

ありとあらゆるものとひとつになる、それが起こったことだった。自分がすべてとひとつになったとは言えないのだが、それは私が消えてしまっていたからだ。言えるのは、ありとあらゆるものとひとつになるということが起こり、圧倒的な愛がすべての部分を満たしたということだ。それと一緒に、全体の完全な理解がやってきた。こうしたことすべてが、時間を超越した一瞬、永遠のように感じられた一瞬の内に起こった。

 なんと、悪女の例えが偶然ここで生きてきた。

それはいつでもすぐ近くにあり、準備を整えて永久に待っている。呼びかければいつでもすぐに返事をしてくれる、忠実で誠実な恋人のように……

悪女より誠実な恋人がいいですね。

一人称のクリアなビジョン『ホームには誰もいない』

ヤン・ケルスショットの『ホームには誰もいない』を読んだ。タイトルが(ミステリー小説みたいで)かっこいいなと思って前から気になっていたのだけど、一年くらい前に本屋さんで手にとったときに「おお文字ぎっしり」と圧倒されて、本棚に戻したのを覚えている。それでも気にはなっていて、数日前、KindleUnlimitedで読めるようになっていたことに気づいてうれしくなって手にとった。

この本は、ダグラス・ハーディングの「頭がない方法」を使って、誰もいないということを説いていくいわゆる非二元系の本だ。「頭がない方法」の実験は動画を見たり、『今ここに死と不死を見る』を読んだりして、私もやったこともあるけれど、よくわからなかった(よくわからないなりに結構しつこくやった)。

それがこの本の説明を読むと、あ、というのがあって(といっても、自分がひゅんと消えたりはしていないけど)、前よりはだいぶわかった。鏡を見て、鏡に映っている三人称の自分を見たあとで、じゃあこちら側にいるのは? と見てみると、以前は「いやいやこの写っている人の元がいるよ」とか思っていたけれど、いまはなんとか「ああー、そんな単純なことか」と思った。

自分の手を眺めて、自分はこの手の中に閉じ込められているのか、それとも、自分の中にこの手があるのか、という問いかけがダグラス・ハーディングの本にある。それから、実験で床を指差し、自分の投げ出した足を指差し、腹、胸、ときて頭を指差す。そこに何があるか?という実験もある。

これらの実験がおもしろい、とは前にやったときにも思っていた。とても重要なことだという予感もしたが、予感どまりだった。たぶん単純過ぎて受け入れられなかったのだ(今もそれなりだ)。

私はそのとき大学で哲学を勉強していて、その話を大学の友人にした。「それがウィトゲンシュタインがいっていたことだ」とその友達は言った。私はウィトゲンシュタインは一年間ゼミで『論考』を勉強したのだけど、ちっともわからなくてよくその友達に相談していた。だから、ほーーそうなのか、と思った。でもその友達は結構生きるのが大変そうで、ウィトゲンシュタインもあまり幸せそうではない哲学者のひとりだ(哲学者はたいていあまり幸福そうではないが、不幸そうな哲学者ランキングでもウィトゲンシュタインはかなり上位に入るだろう…)。私は「これ」がわかったらハッピーで無敵になれるんじゃないかと思っていたので、意外だったし、そのことを友達に言いもした。友達は笑っていたような気がする。

この本にもウィトゲンシュタインの引用があった。

私たちを煩わせること、それは
マインドは自分の中に住む小さな人間だと
私たちが信じてしまうことである。

ウィトゲンシュタインとダグラス・ハーディングは、『ただそのままでいるための超簡約指南』でも、こんなふうに紹介されている。

「意識」や「知覚」といった用語はそれ自体、「~を意識している」「~を知覚している」という経験をかなり不可解なかたちで具象化、あるいは奇妙なかたちで名詞化したものだけれども、そういう経験は頭の中で起こっているとは限らないんじゃないだろうか。知覚は経験の構造そのものだ。知覚が頭の内側に存在しているなんてことがありえるだろうか? (このことをはっきりと指摘した人は多いが、もっとも卓越していたのは後期の著作におけるルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、それにダグラス・ハーディングだ

(ここだけ読むと難しいけど『ただそのままで〜』はすごくわかりやすい本。)

ウィトゲンシュタインのことはまあ、いい。とにかく、ヤン・ケルスショットのこの本はおもしろくて、おもしろいなあおもしろいなあと思いながら読んだ。

彼らが私たちに向かって指を差し、「あなたは、あの小さい子なんだよ」と言うのを聞きながら、徐々に私たちは一人称で見ていた自分の世界、開かれた気づきでいられる世界を、他者の視点から見る世界に交換していきます。これを「三人称のビジョン」と呼びます。第三者、外部者が築いた概念だからです。言い換えると、自己という感覚を築くにあたり、他者が自分についてどういうイメージを持っているかがどんどん重要になっていくということです

三人称のビジョンで生きるとは、他人のようにして自分を生きることで、普通にとても不自然だ。でも、それをやってる。思うのだけれど、思春期に生きるのが急激にしんどくなるのは、本格的に三人称で生き始めるからじゃないだろうか。三人称でいなければ、三人称の自分を強化しなければという思いこみが強くなる時期だ。

でも、だからといって人はずーーっと三人称のビジョンで生きているわけではない。一人称の自分、つまり開かれた、透明で、無限な自分であることも普通にある。だから、意識的に一人称の自分に気づいたとき、なんだ、これのことか、となる。

とても簡単な質問です。相手の目を見たとき、自分の目も見えますか。思考せずに本当にクリアな状態で見ると、自分の側にはクリアな空虚が見えます。

内を見つめないとしたら、 外も見つめないとしたら、 何が残る? それになりなさい。 ――ミラ・パガル

「これが私の感じていること」「これが私の考えていること」「これが私という人間だ」などと言います。最終的にはいわゆる自分の特徴をすべて集めて一つの箱に入れ、「これが私だ」と言うのですが、そんな風に言い切ることが実際に可能でしょうか? 思考、感情、知覚の集まり、本当にこれが私たちなのでしょうか?

私たちは、真に永続する「人」を私たちの中のどこかに見出すことができるでしょうか

 

自分というものを強固に立派なものにしたくて歯をくいしばって、というほどではなくてもそれなりにがんばってきたと思うのだけど、「自分がいない」がこんなに解放的だというのはどういうことなのだろう。ほんとうにふざけている。

美しい挿話があった。湖に浮かべたボートでのんびりしていると、いきなり別のボートがドンとぶつかってくる。頭に来て怒鳴ってやろうと思って振り返ると、ボートには誰も乗っていない。

「他のどのボートにもキャプテンがいないように、私のボートにもキャプテンはいないのだ」と、今彼は気づいています。ただ、いるように見えているだけなのです。

 

非二元のテキストがいいなと思うのは、こまめに「神聖さ」が不要であると注意してくれるところだ。私は努力して何かいいものになろうとしなくていい。あーそれってなんて素晴らしいことだろう。

自分から何かを取り除こうとするのは、まったく無駄なことです。なぜ私たちは神聖な状態にいなければならないのでしょう? どうして自分の人格を裁いたり、エゴをなくそうとしたりしなければならないのでしょう? 素のままの意識は、それの中に生じるものに判断を下すことに関心などありません。テレビ画面は俳優が何か言ったから、何かしたからと判断を下したりしませんが、それと同じです。

トニー・パーソンズは言います。「だからリラックスし、すべてが生じるままに身を委ねなさい――いずれにせよ、すべては生じるのだから。あなたがどう振る舞うべきか、どうあるべきか指示をするこの見せかけばかりの内なる声を手放すのだから、さぞかしホッとすることでしょう。今ここで、ただ手放しなさい」。これを読んでいる間も、これらの思考が生じては退いていくのを何かが見ている、そんな感覚をおぼえるかもしれません。まさに今「上後方に何か」がいて、見ているような感じがするでしょう。この目撃者は判断を下す能力を持たず、ただ単純に見ています

 

ところでこの本がとてもおもしろく読めて、読了後の今も気楽さがあるのは、何かを理解しようとか、救いを得ようというのではなくて、「読みたかった本がUnlimitedに入ってるぜ ラッキー♪」という気分で読み始めたからだと思う。Kindleということもあり、最初は流し読みでどんどん読んで、気になるところを読んで、また頭から読み返したり、適当に読んだ(笑)。こういう本は、あまり真面目に読まないほうが(深刻に受け取らないほうが)、かえっていいのかもしれない。

 

ちなみにこれを読んで「頭がない方法」のサイトを久々に見に行ったら、ヤンがダグラス・ハーディングの2000年のインタビュアーをしていて、知り合いにあったような気持ちになった。http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/99_blank021.html

今日のスタンプ

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