エンタメ」カテゴリーアーカイブ

不穏な愛、破滅する日本ー映画『風立ちぬ』についての覚書

なぜかいま突然、宮﨑駿の「風立ちぬ」について書いてみたくなった。日本はやばいよ、という話題をツイッターなどで見るたびに、「ニッポン、ハメツする」という台詞を思い出すのだけど、会社で言ってもぽかんとされる。あの映画で一番印象に残ったのは私にはあの台詞と台詞回しなのだけど、意外と知られていない。

不穏な愛

「風立ちぬ」はすごくいい映画で、すごくいやな映画だ。男の身勝手さがすごいし、女の情熱が不穏。他人が入れない世界で、見ている者は排除されて、でも美しく、混じりけがなく、止めようがない。それがとても怖い。怖いけれど、その怖さについて他人がどうこういうものでないのは、ふたりが他人に何も求めていないからだ。ふたりはお互いにさえ、何も求めず、期待していない。ただ自分を貫き、相手をそのまま受け入れる。この映画はちょっとイヤミスみたいなところがあり、最近お気に入りの「キラー・インサイド・ミー」を思い出す。ようするに、サイコパスに惚れる女もサイコパスなんだろう。愛の不可能性というか、実在する愛は本質的に危険なものだと思わされる。まったく温和なものではない。そしてそれは美しいものでありうる。

美しい国

それとこの映画で思い出されるのは日本の景色だ。美しい国、というとあまりにもただそれだけのこと以上の意味をもたされてしまうけれど、日本らしい景色というのは多分確かにあって、瑞々しい緑とかこじんまりとした建造物のしんとした気配とか、そこにさらさら吹く風とか夕焼けとか、それは美しいもので、壊れる時には胸が痛い。大震災の描写はいかにも漫画的表現なのだけど、いつ見ても身につまされて心拍数が上がる。

演者について

声優について書くと、堀越二郎を演じたのが庵野秀明で、これは本当に秀逸だ。主演によくこんな演者を当てたものだと思う。そういう決断ができるのが作家なんだ。「牛だ」という一言が初めて見たときから忘れられない。里見菜穂子は瀧本美織が演じていて、あまり賞賛されている様子がないが、これは出色の出来だと思う。ソニー損保のCMではまったくわからなかったが、声が美しく毅然として色気がある。

そういうわけで、「風立ちぬ」は宮﨑駿のラストになりませんでした。

風立ちぬ [DVD]

風立ちぬ [DVD]

エゴの克服は映画になるか?(『リボルバー』)

これも精神世界的世界観が露骨な映画で、『バニラ・スカイ』よりも直球だし、普通に見たら馬鹿らしく思えるのではないかと思う。一応、楽しく見たが、そのあとに『キラー・インサイド・ミー』などの映画らしい映画を見るとやはりちょっとどうかと思う。

どうかと思うのはこれが教育映画だからだ。精神世界を真正面から描き、クライマックスで明白にエゴの克服を迫る。

「俺はお前だ」

「お前は俺じゃない」

「彼が仕掛けた最大のペテンは、彼は君だと君に信じ込ませること」

そういうのが好きならおもしろいし、そうじゃないとなんじゃこりゃとなる。「俺≠お前」は映画のためのアイデアのひとつ、ではない。だからオチがどうこう、というものでもない(そもそも映画のためにアイデアやストーリーが存在するという思考が間違っている)。

といって、私はこの映画をよく理解したというわけではない。
いくつか警句が出てくるがそれもよくわかっていない。

ちなみにジェイソン・ステイサムは坊主の方が100倍かっこいい。でもラストシーンではかっこよく見えてきた。それと敵役の人が何かとパンツ一丁で日焼け部屋で仁王立ちしていてダサくて印象に残る。すると、次に見たアイスマンにも似たような役で出ていた(レイ・リオッタ)。

精神世界界隈では繰り返し何十回も見た人もいるらしいから、思い出したらまた見てみよう。

必然性に対する安堵の感覚(『キラー・インサイド・ミー』と『スライディング・ドア』)

キラー・インサイド・ミー

『キラー・インサイド・ミー』(原題: The Killer Inside Me)を見た。(以下ネタバレあり)

幼年期のトラウマを引きずるサイコパスによる連続殺人。淡々とした描写、サクサク非情な殺人が進んでいく。犯人は極端なまでに善良な市民だったし、これからもそうであり続ける。殺す理由が道義に合わないだけではなく、あるべき憎悪や狂気さえ見当たらない。ただそうせざるを得ないから殺す。激しい暴力描写にあるはずの痛ましさは、不思議と取り除かれている。なぜか被害者がかわいそうではない。特に愛された女たち。彼女たちは彼の欠損に反応し、惹かれてそこにいる。彼に傷つけられるために。「仕方なく殺した。皆の運命は最初から決まってた」という犯人の言葉に同意したくなる。もう誰も傷つけたくないという彼の言葉も、真実なのだろう。行動がそれを裏切るのは、必然性のためだ。

たくさんの人が巻き込まれる悲惨な事態なのに、絶望よりも必然性に対する深い安堵の感覚が勝る。

スライディング・ドア

『スライディング・ドア』という、全体的にサラッとしていて、いかにもグウィネス・パルトロー的な、まったく大した映画ではないのだけれど、としつこく前置きしたくなる、けれどずっと昔に見て以来なんだか忘れられなかった映画が、アマゾンプライムビデオにあったので見返してみたら、やはり90年台後半的な閉塞感にあふれた、おしゃれなグウィネスをたくさん見せることを重視したどうってことのない映画という感じだったのだけれど、ああ、そうかと合点がいったのは、必然性というものに対する安堵をさらっとわかりやすく表現したものだったからだ。

If もしもの世界で、選んだ扉によって人生はそれぞれ違った展開を見せる。生じる行為と感情はまったく別のものだ。しかし生命の誕生や死といった肉体に関わる一切は、行為に関わらず決定されている。精神に関わる愛する人との出会いや別れも、時間のズレはあるが、ある決定された地点に収束していく。感情的な波乱は、心身の生成変化には本質的には関与しない。単なる装飾にすぎないのだと思わせる。

仕方がない。人はこの世界に否応なく巻き込まれていく。地下鉄のドアが閉まる前に飛び乗れても、乗り遅れても、大筋は変わらない。それを「自然」という。

カスタマーレビューで酷評されていておもしろい。

 

 

ミラクルひかるの愛と挑戦

いいなばのっ…しろうさぎっ!!(因幡の白兎)

ミラクルひかるがいる限り、「宇多田ヒカルものまね」というジャンル一帯は絶えず火炎放射器で焼き尽くされ、草一本生えない。自明である。しかし私が、ミラクルひかるの才能に本当の意味で触れたのは宇多田ヒカルによってではなく、浅野温子の「よみ語り」のモノマネを通してだ。ヤマタノオロチ、因幡の白兎……いまでもYoutubeで見られるだろうか。衝撃だった。

古事記を「よみ語り」する浅野温子

浅野温子が「よみ語り」なる特殊な芸を演じていることは知っていた。船越英一郎がナビゲートする番組、「ソロモン流」で紹介されていた。「ソロモン流」でいうところの賢人・浅野温子は、日本各地の神社をまわり、仲の良い脚本家に現代語訳させた古事記を、ひとり読み、演じている。

 

文化的で意欲的な試みである。真摯な気持ちで取り組んでいることがひしひしと伝わってくる。しかし、なんとも形容しがたいものであったことは事実だ。笑ってはいけない空気と、「……でも、どうなの??」と問い正したくなる感じ。しかし大人はそれを、流す。何度かうなずいて、そっとチャンネルを変える。批判するようなことじゃない。本人がやりたくてやり、お客さんも見たくて集まってるんだから。外野がとやかくいうことじゃない。大人なんだから、ね……でも、これってなんなんだろう。これって、いったい……。

パッションをパッションで返す

そう、それは浅野温子による「よみ語り」である。そう高らかに宣言するかのように、ミラクルひかるは受け止めたボールを、打ち返す。「浅野温子のよみ語り」を、ものまねという形式で演じることによって、私たちがうすうす感じながらも勇気も技量もなくて表現できなかった何かをあらわにする。それは決して浅野温子やその取り組みを辱めるためのものではなく、「なんていうのかな……でもこうだよね!!」と温子のパッションを、パッションで返す試みだ。

「よみ語り」に宿る浅野温子の情熱の輪郭をあらわにすること。それによって、私たちが大人としてやり過ごし、ぬぐいさろうとした違和感は肯定され、昇華される。そしてボールは浅野温子に返される。「あなたの情熱ってこうですよね!!ね!」と迫るかのようだ。むろん、勝手に受け取ったボールを打ち返したところで、温子に応える義務はないのだが。

ものまねは失礼か

ものまねをする人は、ものまねされる人を馬鹿にしているのだろうか。そう突っ込めば当然のごとく、「馬鹿になどしていない」と返すだろう。その言葉におそらく嘘はない。ただし、ある人の言動のすんなりとのみ込めない違和感をあらわにするのがものまねなのだとしたら、それはたしかに寝た子を起こす行為でもある。けれど、そこに子が眠っていることは、広く知られるべきことだ。そしてそれは、ものまねされた当人にとってこそ大きな意味があるだろう。だって眠る子供は多くの場合、宝なのだから……。

さて当然のことながら、すべてのものまねがそうした自己対峙を求めるものではない。たとえば椿鬼奴の桃井かおりは、初めから確固たるネタであり、桃井かおりはそのオリジナルソースを提供する者として安全な位置にいる(数年前、犬の糞をアボカドに混ぜてパックするとかいう桃井かおりネタをやっていたときは、安全とは言い切れなかったが)。一方、ミラクルひかるに真似される者は、生々しい自己に思いがけず出会わされてしまうことだろう。たとえば浅野温子なら、唯一無二の雑さ、のようなものに。

さて唐突だが最後に、ミラクルひかるによる美空ひばりの「東京キッド」に目を向けてもらいたい。これは秀逸である。モノクロで再現された「東京キッド」は、エンターテイメントに対する愛を感じさせて感動的だ。美空ひばりが生きていたら、ミラクルひかるをどんなふうに評しただろう。そんなことを書いてきれいにまとめたつもりである。

 

関連記事
http://changelog.biz/miracle-hikaru/

f:id:nemotonemo:20170209230041j:plain

犬、それはLOVE©nemotonemo

 

愛するということはだいぶ狂気に似ているということがわかる素晴らしいドラマ。(「愛するということ」(’93))

「スーパーサラリーマン左江内氏」のキョンキョンの無駄遣いについて書いたら、いつのまにか93年のドラマ「愛するということ」を見ることになり、見始めたら止まらず、最後まで見続けて回によっては繰り返し見た。

このドラマ、中学時代にはまって見ていた。結局人間の精神性は変わらないのだろうか。
ドラマの主題歌である小泉今日子の「優しい雨」と、同時期に発売された工藤静香の「慟哭」のどちらを買おうか、当時真剣に迷ったのを覚えている。結局「慟哭」を買った。(おい)

だいたいのストーリー

(以下、役名ではなく役者名で書きます。)
緒形直人が小泉今日子に一目惚れして追いかけ回し、一日目でプロポーズする。小泉今日子は婚約者もおり、ものすごく迷惑だったがそのあまりにまっすぐな思いや誠実さやらに触れて徐々に惹かれていき、なんと8日で両思いとなる……のだがしかし!!

 

という話。二人が出会ってからの10日と、1年後を書いている。よくもまあ、11話をこれだけシンプルなストーリーで乗り切ったなあと思う。ほとんど二人の心の揺れだけを描いて、それでいてすごく見ごたえがある。

周りの人が言うセリフや出来事は全部、二人が置かれた状況に対するヒントとして存在する。でもわざとらしくない。きっちりと計算された脚本で、ああ、プロの仕事だなあと思う。昔のTBSドラマの落ち着いた職人の仕事という感じだ。

「愛するということ」はストーカードラマか

このドラマは今なら確実にストーカー事案だとよく言われる。まあそうだろう。一目惚れして、好きだ好きだと追いかけて、家までついていく。一応同じビルに勤める素性のはっきりした人とはいえ、「話聞いてくれ、気持ち聞かせてくれ、話したいんだ」と自分の思いをひたすらぶつけられたら怖い。「警察呼ぶわよ!」そう言いながらキョンキョンは徐々に惹かれていく。惹かれていく要素はちゃんとある。クレイジーなまでにまっすぐ愛情をぶつけてくるが、それ以外のところでは優しかったり、誠実だったりして、傷つけるようなこともしない。小泉今日子の親に殴られたりしてもちゃんとこらえるし、他の人に対してもとても誠実だと感じさせる。

ただいまだとこのままのキャラでは作らないだろう。少なくとも地上波の連ドラでは。もう少し常識人にしてしまうと思う。あるいは過剰な善人とか馬鹿っぽいキャラにしてしまうかもしれない。

出会って一日目で「ちゃんと話聞いてくれよ」と家までついていった緒形直人が、行きがかり上お父さんとお酒を飲んだ帰りに(この光景を目の当たりにしてぎょっとするキョンキョンの演技が素晴らしい)、深夜の小学校のグラウンドに幸せそうに仰向けになっている。ハンカチを返そうと追いかけてきたキョンキョンに、
「君が通ってた小学校だろう。君は僕が思ってたとおりの人だった」
とキラキラした目でいうのはすごく怖い。怖いけどこれを消すとキャラとして全然おもしろくない。
(その前にキョンキョンが壊れたフェンスでブラウスの肩のところを破いてしまうのだけど、キョンキョンの心に穴が空いてスキができるといった、脚本のベタな示唆がいい。)
緒形直人は本当にピュアにこういうことを言う。
「思い出してたんだ。(子供の頃の)君がボールを取りに池に飛び込んだって話(←お父さんから聞かされた)。僕は26になって今日初めて飛び込んだんだ」

結局のところ、こういうまっすぐなピュアさを持って人を愛する人は、狂気じみた行為にも出るのであって、狂気じみた振る舞いだけをカットしたらリアリティは失われて平板になる。

ケータイがない時代

93年、普通のサラリーマンやOLはケータイを持っていなかった。ポケベルも出てこない。待ち合わせ場所でひたすら待つ。偶然会う、待ちつづけて会う(待ち合わせ場所や待ち伏せで)、そして終電を逃す。このドラマで二人がやっているのはこればっかり!

印象的なのは2話目で緒形直人が土砂降りの中待ち続けた日比谷シティ。

ところでなんとドラマを見ていた翌日に、日比谷シティを通りかかるといううれしい偶然が起こった。日比谷シティ全然変わってない。

 

f:id:nemotonemo:20170121000955j:plain

f:id:nemotonemo:20170121000956j:plain

助演が素晴らしい

さてこのドラマは脇を固める役者陣も素晴らしい。

キョンキョンの父親役の橋爪功
緒形直人の上司役の角野卓造
キョンキョンの妹役の島崎和歌子

上の二人がうまいのはもちろんのこと、島崎和歌子がKYON2の妹というのもいまではちょっと飲み込めない事態がおこっているわけだが、これが見事。姉に対する態度がそっけないけど温かくもある、リアルな肉親感。初期の二時間ドラマか何かでとんでもない事故レベルの大根演技を見たことがあったので意外だった。わっこさんがこのあとドラマで活躍してないのが不思議なレベル。でもこの妹はだいたい居間でお菓子食べたり、父親に文句言ったりしているので、ほぼ素なのかも。

今みたいに脇を固める役者に(一般人からの)スポットライトが当たる時代ではなかったと思うが、角野卓造や橋爪功といった俳優が屋台骨として日本のドラマを支えてきたんだと感じる。ドラマ全体に深いコクとほのぼのした笑いを加えている。

最後に

運命という外在的な指標に頼っているふりをしているだけで、愛するということはそれが真であるかどうかは自己確信のみに依存するという意味で狂気にとてもよく似ている。「人を好きになるってことがどういうことかわかったの!」とキョンキョンは叫び、狂気の沼に足を踏み入れるかのようだ。あるいは「あなたに好きって言われたから好きになったわけじゃない」とキョンキョンは言う。誰かを愛するという物語の、すさまじい自己完結性。そして二人が踏み入ったのはまったく別の狂気じみた何かなのに、なぜか底でつながっているように感じさせる。

というわけで90年代前半の名作ドラマです。素晴らしい。

今日悟ったこと

島崎和歌子、名女優説。

 

名曲です。

優しい雨

優しい雨

優しい雨

優しい雨

井森美幸とモンダミンの闇

長いつきあい

1人のタレントを何年にも渡って起用しつづける企業が好きだ(永谷園の和田アキ子と赤いきつねの武田鉄矢は除く)。沢口靖子のリッツ改めルヴァンは、変えないことに意義がある。伊藤園も海老蔵が喧嘩してボコボコにされても切らなかったので感心したが、鶴瓶の麦茶を思うと松竹との深いつながりがあるのだろう。しかし、モンダミンの井森美幸までいくとやや不穏である。

創味のつゆの安田美沙子

また、特にメリットもなさそうな芸能人を起用しつづける企業に誠実さを感じる。だから創味のつゆが安田美沙子から、いまどきの若手俳優らに変わったときは残念だった。「なぜ安田美沙子……」という疑念が、徐々に「これが創味の誠実さか……」という思いに変わってきたところだったからだ。

(2017/05/28追記)その後若手俳優に混じってIKKOがねじ込まれたところに創味のわかってる感を感じた。単に(面白い広告屋さんに)従順なだけかもしれない。

エンターテイメントとしてのCM

コマーシャルはタレント長期契約のミステリーも含めて、ひとつのエンターテイメントとして消費させてほしい。そうでないとビジネス上の露骨なやりとりがむき出しになるだけだ。この20年くらいスポンサーへの気遣いが徐々に過剰になってきた感がある。以前はもう少し自然とトークに商品名や会社名が出ていた気がする。そこがNHKとの大きな違いとして認識されていたのだから。

今日悟ったこと

関係ないけどNHKオンデマンドは無料が妥当だ。

あとで思い出したこと

クラレは成海璃子とアルパカをずっと続ければよかったのに!

 

沢口靖子の可能性とヤマザキビスケット

沢口靖子といえば、CSI京都こと「科捜研の女」。あるいは、ナビスコリッツ改めヤマザキビスケット「ルヴァン」と、ひとつの仕事を飽きずに長く続けるイメージがある。一方で何を考えているかさっぱりわからないし、私生活も謎だ。

以前から彼女に出演してほしいと思っているのが、黒沢清監督作品だ。謎の女側ではなく、「叫」の役所広司のような刑事役をやってほしい。ホラー仕立てのサスペンスで、ミイラ取りがミイラになるような話。とにかく画面が寒々しく空はいつも曇っていてすべてがグレーっぽい映像の中で、不眠に苦しみながら捜索しだんだん自分がわからなくなっていく沢口靖子が見たい。

 

どんな演技になるのか想像がつかない。華やかさが出てしまうのだろうか。もしかすると一生けんめい頑張ってしまうのかもしれない。わたしたちはまだ沢口靖子の可能性を知らない、という気がするのだ。知らないほうがいいのかもしれないが。

ところでヤマザキビスケットのロゴマークはWordで作ったのかと思うような味気ないもので、かえってかっこいい。ウェブサイトを見ていると「フワッフィー」というふざけた名前の菓子があり、とても気になった。

今日悟ったこと

「科捜研の女」は大方の予想に反して、「CSI」より一年早くスタートしている!

 

 

ヤマザキビスケット ルヴァンS 39枚×10箱

ヤマザキビスケット ルヴァンS 39枚×10箱

ミラクルひかるの狂気と才能

ものまねメドレー選手権

「とんねるずのみなさんのおかげでした」のものまねメドレー選手権を見た。ミラクルひかるがすごかった。ひとり別次元にいた。

篠原涼子、工藤静香、研ナオコ、あと誰をやっていたかな。(あ、YOUと松田聖子)

ああしよう、こうしようというコントロールが感じられなくて、媒介である本人にとってはどうでもよさそう(に見える)なのだが、そこでモノマネが現象として起こっている。だからものまねをしたまま、フリートークができる。篠原涼子が「ありがと」と福士蒼汰に言い、福士蒼汰が聞き返すと、「ありがとって言ってんの」と篠原涼子が返した。そのときミラクルひかるはどこにもいなかった……。(衝撃……っぽく書いてみた。)

 

不穏なまでの才能

特徴的なのは、もう一度いうがすべてがどうでもよさそうなところだ。心ここにあらずで内容も構成もクレイジーなのに、ものまねのクオリティが半端じゃないため、不穏さがすごい。なぜいま工藤静香で、なぜ研ナオコなのかがわからないが、とにかくそうなのだと無理やりねじふせられる。

「いやいや、彼女だって裏では相当の努力をしているよ」と言われるかもしれないが、古いVTRを見ながらもくもくと練習しているのだってミラクルひかるであってミラクルひかるではないんじゃないのか。

すがすがしい狂気とスリル

この番組に限らないが、ものまね番組に出てものまねタレントと肩を並べていることが不可解に思える。本人もそう思っているかもしれない。だからといってどこに行って並べばいいのかわからないが。

そういえば登場の際、「エロティックなものまね界の女王が六本木での夜遊びを休んでやってきてくれました」とかなんとかと紹介されていた。モノマネの才能がすごすぎて、何をしても虚しいのかもしれない。まだ誰も見たことのない、彼女にふさわしい芸能の形があるのではないだろうか。

ミラクルひかるがモノマネをしていると一瞬も目が離せない。すがすがしい狂気にスリルを感じる。数年前の浅野温子のヤマタノオロチに触れたときの衝撃を思い出した。

鬼奴、福田彩乃

そのほか記録として。椿鬼奴はもはや何をしてもすべて素晴らしいが、「聞こえない」というジャンルを確立し、またその地位を盤石に。鬼奴の桃井かおりはもはや見るとありがたい気持ちになる特別枠。福田彩乃は武井咲のポイント5倍コールなど構成にやや狂気を感じさせて数を詰め込みしっかり力を見せていた。女性陣の奮闘に惹きつけられた。(なぜかものすごく講評っぽくなってしまった。)

関連記事
http://changelog.biz/miracle-hikaru-02/