非二元界のハードボイルド『オープンシークレット』再読

『ホームには誰もいない』からプチ非二元ブームが始まって、思わず『オープンシークレット』を再読した。トニーパーソンズの言葉は『ホームには…』でもたびたび言及され、引用される。

ひさびさに読んで思ったのは、トニーキレキレやな、ということだ。トニー・パーソンズ、非二元界の北方謙三である(違)。

私の観念は切望や欲求不満から生まれた煙幕であり、夢という休暇を与えてくれる。それはいつでも安全で予測可能であり、既知のものへの耽溺だ。

観念が崩壊するとき、あるのはそこにあるものだ。私の身体感覚があって、交響曲が奏でられている。美しい調べであるとはかぎらないが、それは絶えず変化し、動き、現れては消えていく。何かがあちらこちらで起こっている……そして消滅し、別のものに置き換わる。管理したり、操ったりできるものは何もない。それは計り知ることのできない未知のものであり、存在すると思えば、存在しなくなる。

私という存在は弱さを恐れながらコントロールを追い求め、親密さを恐れながらよそよそしさを追求し、従属を恐れながら優勢を保とうと努め、平凡であることをもし恐れていれば特別であろうとする。

ハードボイルド…。「そうじゃない側」についての言及は、まるで的の真ん中を撃ち抜く銃弾である。

目的、希望、信念は、活力と成功への意志を私に与えた。目的、希望、信念──極めて価値あるものとして多くの人たちに認められている、この崇拝の対象、一見説得力のある価値観……。だが当然ながら、その多くの人たちは混乱、絶望、疑念という影のなかでも生きている。

時間の世界のなかでは目的と目標は完璧に適切であるように見えるが、これになる、あれに所属する、変化に向けたプロセス、良い人間になる、浄化のメソッドなどといった目的と目標への忠誠と期待には、過剰な投資がなされている

今よりも良い状況を見つけようとして時間のなかで突進しているとき、毎瞬姿を現している「存在すること」という花を、私たちは踏みつけている

目的に対する私たちの執着は、自分に対して何かを証明したいという必要から生じているのではないかと思う。だが生は単純に生であって、何かを証明しようとしているわけではまったくない。

いちいちキレがあり、しびれるかっこよさなのである。(特にかっこいいところに下線を引いた。)

もうひとつあった。

思考が時間のなかでもっぱら行っているのは、つかみ、分割しながら、満足あるいは災難に向けた前進という観念を絶えず生み出し続けることだ。思考は邪魔をし、秩序について語り、約束をし、破壊について話す。

「思考は邪魔をし、秩序について語り、約束をし、破壊について話す」……もはや文学だ。

 

この本については以前も記事を書いているけれど、見返してみると中身にあまり触れていない。というわけで、中身ついて軽く。

本の最初と最後に同じことが書かれている。

最初の方

悟りは自分の生き方を変えようとする努力、さらには生を少しでも違ったものにしようとする努力すらも絶対的に超えたものだという認識も含まれていた。悟りは、生きているのは何なのかということに関する認識が全面的に転換することと関係している。

最後の方

この公然の秘密は自分の生き方を変える努力とは関係がないからだ。これは、生きているのは何なのかを再発見することと関係している。

では生きているのはなんなのか。それについては本書をよんでほしい。

LINE STAMP©nemotonemo

といいつつ、少し引用を続けてみる。

自分とは本当は何なのかを認識するまでは、自分の恐れる対象が生のほとんどを突き動かしているということもありえる。  始まりと終わりがあるという信念を生み出すのは、恐れであるかもしれない。  自分自身を失うことに対する恐れは、生き残りと継続への衝動を永続させ、維持しかねないが、それは、もっとも強く望みながら何よりも恐れているのが自己の不在だからだ。

私でないものとは、私の人生の物語、心、体、気持ち、痛みや喜びの経験、苦闘、成功や失敗だ。私は孤独でも、静寂でも、欲求不満でも、慈愛でもない。私は自分の目的だと考えているものでも、探求でも、発見でも、スピリチュアルな経験と呼ばれるどのようなものでもない

このままでは引用だけで終わりそうだから、ヤボを承知でコメントする。私、自分、自己…なんでもいいが、これをなんだと思っているか。それが「生きているのは何なのか」という冒頭の問いだろう。ここに挙げられているような、物語、心、成功、孤独、目的といったものを普通は「私」だと思っている。でも不思議なことがある。これらは私の物語であり、私の心であり、私の成功、私の孤独、私の目的だろう。つまり私そのものじゃない。そのことを、私たち(どの私たち?←ヤンの真似)は、どこかで薄々気づいているのだろう。だからその不在を恐れながらも、望んでいる。

私たち(どの私たち?←略)は、この「私」というものを相当に恐れ、苦しめられ、エネルギーを注げるだけ注ぎこんで、疲れ果てている。自分とは、あたかも、主人公を苦しめ続ける死ぬほどいい女である。いなくなったらどうしようと恐れながら、頼むから消えてくれ…と願う。そして今夜もバーボンの空瓶が増える……

でも死ぬほどいい女が悪いわけじゃない。

見かけの上で起こった人生の物語は、それぞれの目覚めにとってこれ以上ないほど完璧に、適切なものだ。すべては今あるものとしてただある。何かもっと良いものになる可能性があるからではなく、ただあるからあるのだ。

というわけでいろいろあって、最終的にこうなる。

ありとあらゆるものとひとつになる、それが起こったことだった。自分がすべてとひとつになったとは言えないのだが、それは私が消えてしまっていたからだ。言えるのは、ありとあらゆるものとひとつになるということが起こり、圧倒的な愛がすべての部分を満たしたということだ。それと一緒に、全体の完全な理解がやってきた。こうしたことすべてが、時間を超越した一瞬、永遠のように感じられた一瞬の内に起こった。

 なんと、悪女の例えが偶然ここで生きてきた。

それはいつでもすぐ近くにあり、準備を整えて永久に待っている。呼びかければいつでもすぐに返事をしてくれる、忠実で誠実な恋人のように……

悪女より誠実な恋人がいいですね。