風をつかむことはできない

問題は、不幸ではなくて、幸福のほうにあるんじゃないかな。

喜びを感じるとそれを掴んでおきたくなる。絶対、二度と、手放したくないと。

自分が手に入れた。自分にはその権利がある、価値があるのだと。

 

愛はいつもその手を放す。

愛があなたを見捨てるように見えるのは、

愛があなたを掴んだことなど一度もないからだ。

 

風をつかむことはできない。

どんな突風も、掴んでそこにとどめておくことはできない。

どんな柔らかな風にも、再現性はない。

もう一度、もう一度と、どんなに努力しても願っても、どんな犠牲を払ったって、無駄だ。

風はそういうもんじゃないとわかってるけど、

すべてがそういうもんじゃないということがわからない。

それでどんな犠牲を払っても、などと奇妙なことを考えはじめる。

 

風をつかむことはできない。

でも、風はいつも吹いている。

 

 

私というビルの中に部屋がたくさんあって

すべての思考と感情が通り過ぎていく。掴んで、そのまま維持しておくことはできない。だけど、ぜひそうしようとムダな努力をしている。

ものは整理できるけれど、思考や感情は整理できない。

ただ、やってきて、去っていく。保管庫もないし、分類用の箱もない。

なのに、なぜかあると思ってる。

幸せの箱をいっぱいにしてたくさん集めて、不幸の箱を空っぽにしようという試み。

そんな箱はない。ないからできない。

そんなシステムはないのだけど、この謎の試みに夢中になって、中毒している。

私というビルの中に部屋がたくさんあって、その中にいろんなものを詰めてると思っている。

いかにしてどれほどいいものを詰め込めるかというのが人生だと思っている。

 

ビルはないし、そこはただの原っぱで、風が吹いている。

中毒について2

さっきの記事のつづき

中毒というのはすごいエネルギーだと思われている。何かに対する激しい情熱が人を突き動かすと思われている。

と書いたけれど、思っていたのは私で、長い間、この中毒的な力こそ必要だと思っていた。

中毒的な力は偉大で、私にさまざまなことを可能にしてくれる大切なもの、創造性の源だという大いなる勘違いをしていた。

何年も前からその存在は知っていた思考停止を、なぜかわからないけれど実践してみると、いろいろなメッセージがリンクしていることに気づく。

インナーゲームのセルフ2に任せることも、ガンガジにパパジが言った「やめる」ということも、ユーフィーリングの「何もしない」も。トランサーフィンも振り子に捕まりたくなければ、からっぽにしておけ、と言っていた。ほかにもたくさんの人が言っていたと思う。(もちろんディティールはそれぞれ違うのだけれど)

自然の力は偉大で、そのままにしておくと種は大きな木に成長する。

そこに何か駆り立てるような焦燥とか、達成への執着のようなものは必要ない。あったら面倒なことになる。

 

ところで中毒は創造しないといったけれど、「それでもいい、そこにはかけがえのない楽しみがあるから」と思うかもしれない。

でも中毒しなくても楽しいものは楽しいようだ。むしろ、焦燥がないだけリラックスして、そのものの本来の魅力を楽しめる。砂糖を食べ過ぎると、もっと甘いものが欲しくなるけれど、砂糖の中毒になっていなければカカオ88%のリンツのチョコレートのおいしさがよくわかるということだ。中毒するのをやめれば隔てていたガラスが取れてその魅力がすっと入ってくるだろう(そのとき人間を依存症にするためだけに作られたものは楽しめなくなるだろう)。

中毒について

好きなこと、楽しいことについて考えふけってしまう。それは一見いいことのように思えるかもしれないけれど、自動的に始まる思考にとらわれていることに変わりはなくて、そこで膨大なエネルギーが浪費される。

思考は好きなものについてであれ、嫌なものについてであれ、始まると答えを求めて走り出す。なんであれその都度の暫定的な答えにしがみつこうとする。それでいてしがみつけるような答えなど出はしない。だからこのしがみつこうとする試みはいつも不可能への挑戦で、苦しい。

ところで中毒というのはすごいエネルギーだと思われている。何かに対する激しい情熱が人を突き動かすと思われている。

また、中毒していることについて人はそれを自由意志で選択していると思い込んでいるから、中毒しているものを摂取する(取り組む)「自由がある」と思っている。でも実際はその逆だ。あたりまえだけど。

そして、そういう力がさまざまなことを達成するエネルギーになると思っている。
でも中毒の力が達成することはおどろくほど少ない。

唐突だけれど、デパ地下に行くと、小麦と砂糖からできた製品ばかりが並んでいる。あれほどの多種多彩なお菓子が並ぶというのは、お肉では考えられない。お肉は食べれば食べるほどもっと食べたくなる、というものではなくて、適量をとると人間の体からもう充分だというホルモンが出る。でも小麦や砂糖はそうではない。そして過剰な小麦や砂糖は人間の体にろくなことをしない。

同じように思考に関しても、中毒のエネルギーはたしかにすごい。でもそれは浪費されるエネルギーで、自由に使えるエネルギーではない。

創造はそうした中毒的なエネルギーの結果ではなくて、むしろそうしたエネルギーの空白地帯で起こる。

(ここでトランサーフィンの「振り子」について思い出す。多分、このことについて詳しく書いていたはずだ。「振り子の法則」リアリティ・トランサーフィン―幸運の波/不運の波の選択

 

よくわからないことは多い(思考停止メソッド)

「自分で考えるのをやめる」という思考停止メソッド(?)を始めて一週間とちょっと過ぎた。そうはいっても全然たくさんのことを考えているけれど、「もやもやと思い悩む」というほど考え続けることはなくなった。

思考が始まると、ある程度のところでたいていは不快感が始まる。そこで、「あ、考えるのはやめたんだった。潜在意識が全部完璧にしてくれるんだ」という決まりごとに気づく。考えるのをやめる。思考はしつこく湧いてくることもあるけれど、頭のなかで何かと何かが戦い続けるようなことは減った。

変化はある。なんとなく、というかはっきりと、寝起きがすっきりしている。いままでもたまにそういうことがあったけれど、最近は連続してすっきりしている。目の周りがひんやりして(それは冬だから)、頭が空っぽでクリアな感じがする。気分も少し、いやだいぶ軽くなっている。

自分で何も考えない。すべては完璧な潜在意識が執り行う。そうすると、だいたいのことはわからなくなる。何が正しいのかわからない。AかBかと質問されてもわからない。自分で考えないので、わからないのは当然だ。まあ、人に聞かれればなんとなくしゃべる、わからないなりに。でも参照すべき客観的な正しさはどこにもない。これは正直すごく気が楽だ。

たとえば誰かの特定の振る舞いをどう思うか。わからない。自分がどう感じているかはわかる(それを言葉で表現できるかは別として)。ただ、どう感じるべきかはわからない。また、他者がどう感じるべきかもわからない。他者がどう感じているかはその人が感じているだろう。

この世によくわからないことは多いのに、わからなくちゃいけないとなぜか思い込んできた。わからないことは悪いことではない。ただわからないというだけのことだ。そのままにしておいてもいい。

自分の立場を明確にしてそれを守り通すための力が必要なくなると、エネルギーも浪費されなくなる。

わからないでいいと思うと本当に楽だ。

というか、ずっと前から、何が正しいかなんて、全然わからなかったのだ。ずーっと、わからなかった。そのことをようやく受け入れたような感じだ。諦めというより、安堵感。

考えなくても、わからないままでも、問題なく物事は進んでいくし、普通に行動もしている。ちょっと信じられないけれど、こういう世界があったのだ。

「インナーゴルフ」が素晴らしすぎた。

「インナーゴルフ」というかインナーゲームオブゴルフ。すごい大胆に端折った邦題だ。

とにかく素晴らしくて、線を引きまくり丸をしまくって読んだ。引用とかもうめんどくさいので、買って読んで下さい。本当に素晴らしいです。スピリチュアル系の本読んでる人からしたらわかる、わかるよ!ってなるし、かといって地上から数センチ浮いてない系の実用書なので、ふふふふふという感じでわくわくしてくる。とりあえずゴルフやりたくなる。

セルフ1を黙らせる。セルフ2を信頼して任せる。これってもう完全に「自分で何も考えない。潜在意識がすべてやってくれる」の世界観。一応基本はセルフ1が目標とかどうしたいかを決めるんだけど、途中からそれもセルフ2にやらせよう、ってなる。「もう私にはどうしたらいいかわからないので、君がやってくれ」的なことを言い出す。サレンダー。

やっぱり号泣したところだけ引用しよう。特別に。

これは、私の勝利だった。(…)私は幻想を打ち砕いたのだ。専制君主の支配から脱出することができたのだ。私はずっと長い間、その支配から逃れられなかった。いい結果を出したときにはいい気分と名誉が与えられ、失敗したときには自分を責め、無力感にさいなまれた。その褒美を目当てに、私は彼の奴隷となって、いつもいいショットを打とうとしてきた。けれどこのときの一打を境に、私は自分の内側の専制君主に決別し、独立を宣言したのだ。彼は私から真の喜びを奪い、芸術を奪い、彼が要求する結果を自ら邪魔だてしてきた。彼が私に与えてきたつもりの褒美は、実は現実ではなく、幻想の幸福に過ぎなかったのだ。私はボールに向かって歩きながら、そう考えた。私はこれでより強くなったのだとも思わなかった。自信がついたとも感じなかった。ただ単に、誘惑に強く、傷つきにくくなったのとだけ、感じることができた。

生きるって本当は純粋に喜びで、この身体を持ってさまざまなことを感じるということがそれ自体ものすごい僥倖、奇跡の瞬間の連続みたいなものなんだろうと思う。感じること、知覚すること、気づくことは同じことの繰り返しではありえない。不安定で不確か。だからこそ新鮮な喜びに満ちている。
生きるって要するにそういうことなんでしょ。

なのになぜかセルフ1とここで呼ばれる私たちの思考は、そこで安定を求め、同じことを繰り返そうとする。なぜ? 自分の存在意義を証明するためだ。生き延びるためだ。つまり本当はセルフ1は実在しない。自分が架空の存在だってことを知ってるんだ。Unicorn is Real, but self 1 is not real!!!

自分が一生懸命考えて批判して判断しているから安全が守られるんだよってことを証明することで、自分が実在しないことをごまかす。そのために、うまくいかないときは自分(セルフ2)を叱責し、うまくいってるときは自分(セルフ2)を疑うことをし続けた。なんて奴!!

でも、そもそもなんでそんなやつのいうこと聞かなきゃいけないんだ???? なんでそんなやつのいうこと聞いてきたんだ!!?? 非実在存在のいうことを真に受けて。

だいたいなんでもセルフ2がやってんだよ。呼吸も歩くことも、手を伸ばしてコップをとることも、ゴルフのスイングも、こうして文字を打つことだって。

ここで唐突にガルウェイのフォーミュラ。

P=p-i
パフォーマンス=ポテンシャル−インタフェア
(発揮する能力=潜在能力−妨害活動)

ワオ、ワオ、ワオという感じだ。シンプル真理すぎる。

セルフ1を黙らせて、セルフ2にすべてを任せる。それでも残る何かが「誠意」だったとガルウェイはいう。なんということだろう。

究極の誠意とは、もはや何も考えない状態に至ったとき、最後に残る「何か」のことだ。

 

物事に深い意味はない

物事に深い意味はない。あると思って生きてきたが多分ない。

陰謀論者はすべてに隠された意味、理由と原因とがあると思っているが最終的にどこまで行くつもりだろうか(行き着くところがない)。 原因は最終、自己原因になるかループする、という結論が哲学的に出ていたはず。無限に外部を求めるということか(未来に先送りする)。どれも病的な思考ではあるが、自己原因ならば、思考をやめて静かに暮らすことができる、スピノザのように。(そういうことか…とひとりで勝手に納得する。)

物事に深い意味はない。そしてあると考えてもないと考えてもあまり差がない。苦楽の差くらい。で、この苦楽の差のために、血と汗と涙を流し、人生を棒に振っているといっても過言ではないのに、深い意味はないと考えてラクに生きるよりも、深い意味があると考えて苦労してその末にラクをつかもうとしているのが人間で、ちょっと意味がわからないと思うけれど実際そういうことをしている。

目の前におまんじゅうがあるのだけど、それを食べないですごく過酷な旅に出る。何を探してるのかと聞くとおまんじゅうを探しているのだという。

「え、それならさっき、ちゃぶ台に…」
「いやそんな単純なおまんじゅうじゃなくて、もっと深い意味での…真実のおまんじゅうを求めてるんです」
「(……衝撃!)」

これが人生である。

で、深い意味があると思って生きることにも深い意味はないので、このことについてこれ以上深く考える必要もない。人の旅はもちろん、自分の過去の旅についても考えなくていい。

私もカンヌで絶賛したかった「お嬢さん」

見なきゃと思いながらどうも気が進まなくて、ついに見たのだけれど、こんなに素晴らしいならもっと早く見ればよかったと悶絶するという一人コントを繰り広げていた。本当に素晴らしくて、途中声をあげて笑っちゃうくらいで、ガッツポーズして最高!って感じだった。

素晴らしい映画についてはそんなに言うことがないし、コメントもしにくい。これはどう考えてもネタバレ回避すべき作品だ。

でもうっすらとネタバレしないとこの先が書けないので、この先を読むと、どことなく、わかってしまうので見る前に読まないでください。


不信が信頼へと変わる喜びが映画的経験にはあって、もうこれはひどい話なんじゃないか、見たあとうんざりするんじゃないか、感情を振り回されて疲れ果てるんじゃないかという疑いとともに進んでいくと、うわー!!最高じゃないか!!なんてことだーー!!!っていう歓喜に変わる。最初から大丈夫だよと言われてるとそういう振り回されは起こらないから、ディズニー映画とかはもうその時点で、損してるよね。韓国映画はどんな弾が飛んでくるかわからない怖さがあるのでかなりハラハラした。これはカンヌ映画祭で見て十分間のスタンディングオベーションに参加したい人生だった。

映画の内容も不信が信頼へと変わる喜びについて描いている。不信、不信、不信。しかし泥沼の中に美しい花が咲く。純粋さ、素朴さ、勇気が勝利する世界を入り組んだ構成で正面から豪速球で投げる。こんなことができるんだな。ふつう寓話のようになってしまうことを恐れる。でも情熱をもってそれをやる。寓話と言えば寓話なのだ。おとぎ話のような世界観だ。ただしエロくてグロくてサスペンスフルな、本来の意味でのおとぎ話だ。

あーー素晴らしいものって思考の必要がないんだ。賞賛はバカっぽい。けどそれが賞賛だ。正真正銘の。

何も言うことはないし、言葉を尽くす必要もない。すでにすべて映画が語っている。スタンディングオベーションというのは便利だ。