あることの非特別さ / トニー・パーソンズ「オープン・シークレット」

トニー・パーソンズの「オープン・シークレット」を読んだ。

以前同じ著者の「なんでもないものがあらゆるものである」を読んだときは、追い詰められたあげく突き放されて呆然とするような感じがあった。厳しさは覚悟していたが、自分ならそこから一撃を受けることができるんじゃないかという甘い期待はあっけなく打ち砕かれた。時間が経ってからふと、「今なら何かつかめるかもしれない」(というのもなんだけれど)と思って開くと、やはりよくわからなかったりした。

それに比べると、「オープン・シークレット」は予告されていたように、やさしい。風のように、なんということはなく、さらさらと通り過ぎていく。ひとつひとつの章のまとまりもごく短く、全体量も少なく、するりと逃げてしまう。逃げてしまうのだけど、そのつかめなさが、軽さが、やけに心地いい。

扉にも書かれている、「公園」からの一節がとても印象的だった。

ああ、なんだ、という感じがした。

歩きながら、起こるか起こらないかわからない未来の出来事に対する期待で頭が完全に占領されていることに気がついた。そして、そうした予測を手放して、ただ歩きとともにあることを選んだように思えた。(…)

こうしたすべてが起こっていたそのとき、自分が歩くのを観察している自分から、歩きがただあるということへの移行が起こった。それから起こったことは全く描写不可能だ。(「公園」より)

それから、よく聞く「獲得すべきものはない」について。

時間のなかでの奮闘が解放をもたらすことはない。生は務めではない。獲得すべきことなどまったく何もない。獲得すべきことなどまったく何もないという認識を除けば。(「無達成」より)

「獲得するものはない」、それは本当にただそれだけの意味なのだろう。獲得するものがないという特別さを手に入れるのではなくて、本当に、ただないのだろう。そう思った。

この本を読んで少しの間考えていたのは、自分がいないとしても何も問題はない、ということだ。私が歩いているのではなくて、歩きが起こっているとして、そこに不足はなにひとつない。ならば私は何を一生けんめいにつかんでいるのだろう。

手放せたら、と思う。

同時に、つかんだ夢の甘美を感じてもいる。

私はいつも悟りを、「これまで食べたことのない特別な甘いお菓子を味わうような至福の持続」と考えてしまう。(ドラえもんに出てきた真珠みたいにキラキラと光る未来のお菓子のイメージ)

でも、それはつかんだ夢の中にしかない。きっとそれはなんでもないものだ。それは隠されていないし、ほんとうにどうってことない、あまりにもあっけないものだ。まったくの非特別さ。きっとそんなものだと思う。

そしてまた期待が生まれる。

ずっと求めていた貴重で特別で得難いものが、貴重でも特別でもなく得難くもないと知ること。その効果を期待している。

公然の秘密(オープン・シークレット)は「自分の生き方を変える努力とは関係がない」という。そうなのだろうと思う。そして、自分の生き方を変える努力から離れる努力を模索する。

夢から夢へ、旅はつづく(笑)。

手が届かないと悲観しているわけではない。かといって、もう少しだと期待しているというのもおかしい。

なんともいえないが、この小さな本には不思議な魅力があるのは事実だ。地下のボイラー室のブーンという音がずっと前から鳴っていたことに気づかせてくれるような力が。

解説に、そう、そのことについて知りたかったのだ、ということが書かれている。そのためにすることはない、できることはない、それでも何か、というごく人間的な思いに応えるもの。「公園」での出来事に関わることだ。何が書かれているかは本書を読んでほしい。

トニー・パーソンズがこの本を五回も改稿しているというのは、心温まる情報だった。

 

 

 

あることの非特別さ / トニー・パーソンズ「オープン・シークレット」」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: 非二元界のハードボイルド『オープンシークレット』再読 – changelog.biz

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