必然性に対する安堵の感覚(『キラー・インサイド・ミー』と『スライディング・ドア』)

キラー・インサイド・ミー

『キラー・インサイド・ミー』(原題: The Killer Inside Me)を見た。(以下ネタバレあり)

幼年期のトラウマを引きずるサイコパスによる連続殺人。淡々とした描写、サクサク非情な殺人が進んでいく。犯人は極端なまでに善良な市民だったし、これからもそうであり続ける。殺す理由が道義に合わないだけではなく、あるべき憎悪や狂気さえ見当たらない。ただそうせざるを得ないから殺す。激しい暴力描写にあるはずの痛ましさは、不思議と取り除かれている。なぜか被害者がかわいそうではない。特に愛された女たち。彼女たちは彼の欠損に反応し、惹かれてそこにいる。彼に傷つけられるために。「仕方なく殺した。皆の運命は最初から決まってた」という犯人の言葉に同意したくなる。もう誰も傷つけたくないという彼の言葉も、真実なのだろう。行動がそれを裏切るのは、必然性のためだ。

たくさんの人が巻き込まれる悲惨な事態なのに、絶望よりも必然性に対する深い安堵の感覚が勝る。

スライディング・ドア

『スライディング・ドア』という、全体的にサラッとしていて、いかにもグウィネス・パルトロー的な、まったく大した映画ではないのだけれど、としつこく前置きしたくなる、けれどずっと昔に見て以来なんだか忘れられなかった映画が、アマゾンプライムビデオにあったので見返してみたら、やはり90年台後半的な閉塞感にあふれた、おしゃれなグウィネスをたくさん見せることを重視したどうってことのない映画という感じだったのだけれど、ああ、そうかと合点がいったのは、必然性というものに対する安堵をさらっとわかりやすく表現したものだったからだ。

If もしもの世界で、選んだ扉によって人生はそれぞれ違った展開を見せる。生じる行為と感情はまったく別のものだ。しかし生命の誕生や死といった肉体に関わる一切は、行為に関わらず決定されている。精神に関わる愛する人との出会いや別れも、時間のズレはあるが、ある決定された地点に収束していく。感情的な波乱は、心身の生成変化には本質的には関与しない。単なる装飾にすぎないのだと思わせる。

仕方がない。人はこの世界に否応なく巻き込まれていく。地下鉄のドアが閉まる前に飛び乗れても、乗り遅れても、大筋は変わらない。それを「自然」という。

カスタマーレビューで酷評されていておもしろい。

 

 

ミラクルひかるの愛と挑戦

いいなばのっ…しろうさぎっ!!(因幡の白兎)

ミラクルひかるがいる限り、「宇多田ヒカルものまね」というジャンル一帯は絶えず火炎放射器で焼き尽くされ、草一本生えない。自明である。しかし私が、ミラクルひかるの才能に本当の意味で触れたのは宇多田ヒカルによってではなく、浅野温子の「よみ語り」のモノマネを通してだ。ヤマタノオロチ、因幡の白兎……いまでもYoutubeで見られるだろうか。衝撃だった。

古事記を「よみ語り」する浅野温子

浅野温子が「よみ語り」なる特殊な芸を演じていることは知っていた。船越英一郎がナビゲートする番組、「ソロモン流」で紹介されていた。「ソロモン流」でいうところの賢人・浅野温子は、日本各地の神社をまわり、仲の良い脚本家に現代語訳させた古事記を、ひとり読み、演じている。

 

文化的で意欲的な試みである。真摯な気持ちで取り組んでいることがひしひしと伝わってくる。しかし、なんとも形容しがたいものであったことは事実だ。笑ってはいけない空気と、「……でも、どうなの??」と問い正したくなる感じ。しかし大人はそれを、流す。何度かうなずいて、そっとチャンネルを変える。批判するようなことじゃない。本人がやりたくてやり、お客さんも見たくて集まってるんだから。外野がとやかくいうことじゃない。大人なんだから、ね……でも、これってなんなんだろう。これって、いったい……。

パッションをパッションで返す

そう、それは浅野温子による「よみ語り」である。そう高らかに宣言するかのように、ミラクルひかるは受け止めたボールを、打ち返す。「浅野温子のよみ語り」を、ものまねという形式で演じることによって、私たちがうすうす感じながらも勇気も技量もなくて表現できなかった何かをあらわにする。それは決して浅野温子やその取り組みを辱めるためのものではなく、「なんていうのかな……でもこうだよね!!」と温子のパッションを、パッションで返す試みだ。

「よみ語り」に宿る浅野温子の情熱の輪郭をあらわにすること。それによって、私たちが大人としてやり過ごし、ぬぐいさろうとした違和感は肯定され、昇華される。そしてボールは浅野温子に返される。「あなたの情熱ってこうですよね!!ね!」と迫るかのようだ。むろん、勝手に受け取ったボールを打ち返したところで、温子に応える義務はないのだが。

ものまねは失礼か

ものまねをする人は、ものまねされる人を馬鹿にしているのだろうか。そう突っ込めば当然のごとく、「馬鹿になどしていない」と返すだろう。その言葉におそらく嘘はない。ただし、ある人の言動のすんなりとのみ込めない違和感をあらわにするのがものまねなのだとしたら、それはたしかに寝た子を起こす行為でもある。けれど、そこに子が眠っていることは、広く知られるべきことだ。そしてそれは、ものまねされた当人にとってこそ大きな意味があるだろう。だって眠る子供は多くの場合、宝なのだから……。

さて当然のことながら、すべてのものまねがそうした自己対峙を求めるものではない。たとえば椿鬼奴の桃井かおりは、初めから確固たるネタであり、桃井かおりはそのオリジナルソースを提供する者として安全な位置にいる(数年前、犬の糞をアボカドに混ぜてパックするとかいう桃井かおりネタをやっていたときは、安全とは言い切れなかったが)。一方、ミラクルひかるに真似される者は、生々しい自己に思いがけず出会わされてしまうことだろう。たとえば浅野温子なら、唯一無二の雑さ、のようなものに。

さて唐突だが最後に、ミラクルひかるによる美空ひばりの「東京キッド」に目を向けてもらいたい。これは秀逸である。モノクロで再現された「東京キッド」は、エンターテイメントに対する愛を感じさせて感動的だ。美空ひばりが生きていたら、ミラクルひかるをどんなふうに評しただろう。そんなことを書いてきれいにまとめたつもりである。

 

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