自分と経験の境界線?『ただそのままでいるための超簡約指南』再読

続・プチ非二元ブームで、今度はこちらの本を再読した。

以前にもこの本については紹介記事を書いているけれど、今回は全然違う観点から見てみる。というか、正直言うと、前の記事を今読んでみても、ぴんとこなかった。まあ、そういうものだ。

『ホームに私はいない』と同じように、この本でも私はいないということを見るけれど、ダグラス・ハーディングの実験とは少し違う。

自分と経験のあいだの違いをぼやかすことはできるのだろうか? 実際にはどこを見てもそんな境界線は見つからないことに気づくんじゃないだろうか。経験をただ見て、境界や概念をそこにつけ加えないでいると、面白いことが起こる。

ありがたいことに、自分という感覚がいつでもあるわけじゃないと気づくこともできる。自分という感覚がなく、ただ意識、経験、「これ」だけがある瞬間に気づく──しっかりと見つめる──ことができる。このあと、そういう瞬間のいくつかを見てみよう。でも今のところは、わたしたちは経験を自分と自分じゃないものに不自然に分けている(ときにはそれが役立つことがあるとしても)ということだけ言っておこう。自分と自分じゃないものの境界線は、そんなにはっきりしていないのではないだろうか。体は自分? 吸い込んでいる空気は?

たとえば、自分が呼吸しているのか、自分を呼吸しているのか、自分に呼吸しているのか。どれでもいいような感じがする。自分と呼吸の関係はそんなにはっきりしたものだろうか。私という人間がいて、呼吸という行為がある。その区切りかたもそうだ。もし、どうも呼吸と自分が別ものとは言えない感じがしてきたら、空気はどうなんだろう。呼吸は空気と別ものじゃないとしたら、空気と私も別ものじゃないことになる。私が、空気を、吸っている。こんなふうに考えることは、ものすごく不自然だという気がしてくる。

花ならどうだろう。花は咲くけれど、「花は、咲く」んだろうか。花と咲くことは分けられるのか。花は枯れるけれど、花と枯れるは分けられるんだろうか。

経験をただ見ているとき、経験をよく観察しているとき、そこにどんな自分も見いだすことはできない。実際、経験を取捨選択しないで注意深く見守っていれば、ゆっくりとわかってくる。誰も存在していなかったんだと。

だから、

すべての経験が目覚めの経験だ。十分に注意深く見てみれば、どんな経験も真実を示していることがわかる

 

「私がいない」ということはそんなに大切なことだろうか。大切なことだ。「私が生きている」と思うことで、私たちは「生から何かを得る」という地獄のようなゲームに夢中になっている。そこでは当然、私と生は切り離されている。だから私は生から何かを得なければならないのだ。でも、生と切り離された私は一体どこにいるんだろうか? 生という経験に外なんてあるのだろうか?

生からは何も得られない。生から何かを持ち出せるような外側は存在していない。生の蓄えをかすめ取って貯めこんでおけるような小さなポケットが生の外側についているなんてことはない。この瞬間の生に、外側などない

生からは何も得られない。私が生だからだ。

そうすると、生から何かを得ようとする試みである欲求とか望みとか空想とかも不思議なものに思えてくる。

空想は楽しい。空想は離れ小島に似てもいる。空想は、現実の親密さから離れて一休みしよう、という実現不可能な試みで構成されている。空想はたいてい、本当の親密さを遅らせること、もしくは妨げることをおもな目的としている。だからわたしはときどきこういう空想のことを「疎外欲求」と呼ぶ。生からリアリティを奪い去る欲求は、どれもが疎外欲求だ。でも実際のところ、それは本当に欲求なのだろうか? それが「実現する」のをわたしたちは本当に望んでいるだろうか。もしかして、それは単に欲求のための欲求、つまり欲求の中にとどまっていたい、欲求の対象から隔たった状態にありつづけたいという欲求だということはないだろうか。

 

まあちょっとよくわかってないのにイキって書いた部分もあるけど、今日のところはここまで。

非二元界のハードボイルド『オープンシークレット』再読

『ホームには誰もいない』からプチ非二元ブームが始まって、思わず『オープンシークレット』を再読した。トニーパーソンズの言葉は『ホームには…』でもたびたび言及され、引用される。

ひさびさに読んで思ったのは、トニーキレキレやな、ということだ。トニー・パーソンズ、非二元界の北方謙三である(違)。

私の観念は切望や欲求不満から生まれた煙幕であり、夢という休暇を与えてくれる。それはいつでも安全で予測可能であり、既知のものへの耽溺だ。

観念が崩壊するとき、あるのはそこにあるものだ。私の身体感覚があって、交響曲が奏でられている。美しい調べであるとはかぎらないが、それは絶えず変化し、動き、現れては消えていく。何かがあちらこちらで起こっている……そして消滅し、別のものに置き換わる。管理したり、操ったりできるものは何もない。それは計り知ることのできない未知のものであり、存在すると思えば、存在しなくなる。

私という存在は弱さを恐れながらコントロールを追い求め、親密さを恐れながらよそよそしさを追求し、従属を恐れながら優勢を保とうと努め、平凡であることをもし恐れていれば特別であろうとする。

ハードボイルド…。「そうじゃない側」についての言及は、まるで的の真ん中を撃ち抜く銃弾である。

目的、希望、信念は、活力と成功への意志を私に与えた。目的、希望、信念──極めて価値あるものとして多くの人たちに認められている、この崇拝の対象、一見説得力のある価値観……。だが当然ながら、その多くの人たちは混乱、絶望、疑念という影のなかでも生きている。

時間の世界のなかでは目的と目標は完璧に適切であるように見えるが、これになる、あれに所属する、変化に向けたプロセス、良い人間になる、浄化のメソッドなどといった目的と目標への忠誠と期待には、過剰な投資がなされている

今よりも良い状況を見つけようとして時間のなかで突進しているとき、毎瞬姿を現している「存在すること」という花を、私たちは踏みつけている

目的に対する私たちの執着は、自分に対して何かを証明したいという必要から生じているのではないかと思う。だが生は単純に生であって、何かを証明しようとしているわけではまったくない。

いちいちキレがあり、しびれるかっこよさなのである。(特にかっこいいところに下線を引いた。)

もうひとつあった。

思考が時間のなかでもっぱら行っているのは、つかみ、分割しながら、満足あるいは災難に向けた前進という観念を絶えず生み出し続けることだ。思考は邪魔をし、秩序について語り、約束をし、破壊について話す。

「思考は邪魔をし、秩序について語り、約束をし、破壊について話す」……もはや文学だ。

 

この本については以前も記事を書いているけれど、見返してみると中身にあまり触れていない。というわけで、中身ついて軽く。

本の最初と最後に同じことが書かれている。

最初の方

悟りは自分の生き方を変えようとする努力、さらには生を少しでも違ったものにしようとする努力すらも絶対的に超えたものだという認識も含まれていた。悟りは、生きているのは何なのかということに関する認識が全面的に転換することと関係している。

最後の方

この公然の秘密は自分の生き方を変える努力とは関係がないからだ。これは、生きているのは何なのかを再発見することと関係している。

では生きているのはなんなのか。それについては本書をよんでほしい。

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といいつつ、少し引用を続けてみる。

自分とは本当は何なのかを認識するまでは、自分の恐れる対象が生のほとんどを突き動かしているということもありえる。  始まりと終わりがあるという信念を生み出すのは、恐れであるかもしれない。  自分自身を失うことに対する恐れは、生き残りと継続への衝動を永続させ、維持しかねないが、それは、もっとも強く望みながら何よりも恐れているのが自己の不在だからだ。

私でないものとは、私の人生の物語、心、体、気持ち、痛みや喜びの経験、苦闘、成功や失敗だ。私は孤独でも、静寂でも、欲求不満でも、慈愛でもない。私は自分の目的だと考えているものでも、探求でも、発見でも、スピリチュアルな経験と呼ばれるどのようなものでもない

このままでは引用だけで終わりそうだから、ヤボを承知でコメントする。私、自分、自己…なんでもいいが、これをなんだと思っているか。それが「生きているのは何なのか」という冒頭の問いだろう。ここに挙げられているような、物語、心、成功、孤独、目的といったものを普通は「私」だと思っている。でも不思議なことがある。これらは私の物語であり、私の心であり、私の成功、私の孤独、私の目的だろう。つまり私そのものじゃない。そのことを、私たち(どの私たち?←ヤンの真似)は、どこかで薄々気づいているのだろう。だからその不在を恐れながらも、望んでいる。

私たち(どの私たち?←略)は、この「私」というものを相当に恐れ、苦しめられ、エネルギーを注げるだけ注ぎこんで、疲れ果てている。自分とは、あたかも、主人公を苦しめ続ける死ぬほどいい女である。いなくなったらどうしようと恐れながら、頼むから消えてくれ…と願う。そして今夜もバーボンの空瓶が増える……

でも死ぬほどいい女が悪いわけじゃない。

見かけの上で起こった人生の物語は、それぞれの目覚めにとってこれ以上ないほど完璧に、適切なものだ。すべては今あるものとしてただある。何かもっと良いものになる可能性があるからではなく、ただあるからあるのだ。

というわけでいろいろあって、最終的にこうなる。

ありとあらゆるものとひとつになる、それが起こったことだった。自分がすべてとひとつになったとは言えないのだが、それは私が消えてしまっていたからだ。言えるのは、ありとあらゆるものとひとつになるということが起こり、圧倒的な愛がすべての部分を満たしたということだ。それと一緒に、全体の完全な理解がやってきた。こうしたことすべてが、時間を超越した一瞬、永遠のように感じられた一瞬の内に起こった。

 なんと、悪女の例えが偶然ここで生きてきた。

それはいつでもすぐ近くにあり、準備を整えて永久に待っている。呼びかければいつでもすぐに返事をしてくれる、忠実で誠実な恋人のように……

悪女より誠実な恋人がいいですね。

一人称のクリアなビジョン『ホームには誰もいない』

ヤン・ケルスショットの『ホームには誰もいない』を読んだ。タイトルが(ミステリー小説みたいで)かっこいいなと思って前から気になっていたのだけど、一年くらい前に本屋さんで手にとったときに「おお文字ぎっしり」と圧倒されて、本棚に戻したのを覚えている。それでも気にはなっていて、数日前、KindleUnlimitedで読めるようになっていたことに気づいてうれしくなって手にとった。

この本は、ダグラス・ハーディングの「頭がない方法」を使って、誰もいないということを説いていくいわゆる非二元系の本だ。「頭がない方法」の実験は動画を見たり、『今ここに死と不死を見る』を読んだりして、私もやったこともあるけれど、よくわからなかった(よくわからないなりに結構しつこくやった)。

それがこの本の説明を読むと、あ、というのがあって(といっても、自分がひゅんと消えたりはしていないけど)、前よりはだいぶわかった。鏡を見て、鏡に映っている三人称の自分を見たあとで、じゃあこちら側にいるのは? と見てみると、以前は「いやいやこの写っている人の元がいるよ」とか思っていたけれど、いまはなんとか「ああー、そんな単純なことか」と思った。

自分の手を眺めて、自分はこの手の中に閉じ込められているのか、それとも、自分の中にこの手があるのか、という問いかけがダグラス・ハーディングの本にある。それから、実験で床を指差し、自分の投げ出した足を指差し、腹、胸、ときて頭を指差す。そこに何があるか?という実験もある。

これらの実験がおもしろい、とは前にやったときにも思っていた。とても重要なことだという予感もしたが、予感どまりだった。たぶん単純過ぎて受け入れられなかったのだ(今もそれなりだ)。

私はそのとき大学で哲学を勉強していて、その話を大学の友人にした。「それがウィトゲンシュタインがいっていたことだ」とその友達は言った。私はウィトゲンシュタインは一年間ゼミで『論考』を勉強したのだけど、ちっともわからなくてよくその友達に相談していた。だから、ほーーそうなのか、と思った。でもその友達は結構生きるのが大変そうで、ウィトゲンシュタインもあまり幸せそうではない哲学者のひとりだ(哲学者はたいていあまり幸福そうではないが、不幸そうな哲学者ランキングでもウィトゲンシュタインはかなり上位に入るだろう…)。私は「これ」がわかったらハッピーで無敵になれるんじゃないかと思っていたので、意外だったし、そのことを友達に言いもした。友達は笑っていたような気がする。

この本にもウィトゲンシュタインの引用があった。

私たちを煩わせること、それは
マインドは自分の中に住む小さな人間だと
私たちが信じてしまうことである。

ウィトゲンシュタインとダグラス・ハーディングは、『ただそのままでいるための超簡約指南』でも、こんなふうに紹介されている。

「意識」や「知覚」といった用語はそれ自体、「~を意識している」「~を知覚している」という経験をかなり不可解なかたちで具象化、あるいは奇妙なかたちで名詞化したものだけれども、そういう経験は頭の中で起こっているとは限らないんじゃないだろうか。知覚は経験の構造そのものだ。知覚が頭の内側に存在しているなんてことがありえるだろうか? (このことをはっきりと指摘した人は多いが、もっとも卓越していたのは後期の著作におけるルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、それにダグラス・ハーディングだ

(ここだけ読むと難しいけど『ただそのままで〜』はすごくわかりやすい本。)

ウィトゲンシュタインのことはまあ、いい。とにかく、ヤン・ケルスショットのこの本はおもしろくて、おもしろいなあおもしろいなあと思いながら読んだ。

彼らが私たちに向かって指を差し、「あなたは、あの小さい子なんだよ」と言うのを聞きながら、徐々に私たちは一人称で見ていた自分の世界、開かれた気づきでいられる世界を、他者の視点から見る世界に交換していきます。これを「三人称のビジョン」と呼びます。第三者、外部者が築いた概念だからです。言い換えると、自己という感覚を築くにあたり、他者が自分についてどういうイメージを持っているかがどんどん重要になっていくということです

三人称のビジョンで生きるとは、他人のようにして自分を生きることで、普通にとても不自然だ。でも、それをやってる。思うのだけれど、思春期に生きるのが急激にしんどくなるのは、本格的に三人称で生き始めるからじゃないだろうか。三人称でいなければ、三人称の自分を強化しなければという思いこみが強くなる時期だ。

でも、だからといって人はずーーっと三人称のビジョンで生きているわけではない。一人称の自分、つまり開かれた、透明で、無限な自分であることも普通にある。だから、意識的に一人称の自分に気づいたとき、なんだ、これのことか、となる。

とても簡単な質問です。相手の目を見たとき、自分の目も見えますか。思考せずに本当にクリアな状態で見ると、自分の側にはクリアな空虚が見えます。

内を見つめないとしたら、 外も見つめないとしたら、 何が残る? それになりなさい。 ――ミラ・パガル

「これが私の感じていること」「これが私の考えていること」「これが私という人間だ」などと言います。最終的にはいわゆる自分の特徴をすべて集めて一つの箱に入れ、「これが私だ」と言うのですが、そんな風に言い切ることが実際に可能でしょうか? 思考、感情、知覚の集まり、本当にこれが私たちなのでしょうか?

私たちは、真に永続する「人」を私たちの中のどこかに見出すことができるでしょうか

 

自分というものを強固に立派なものにしたくて歯をくいしばって、というほどではなくてもそれなりにがんばってきたと思うのだけど、「自分がいない」がこんなに解放的だというのはどういうことなのだろう。ほんとうにふざけている。

美しい挿話があった。湖に浮かべたボートでのんびりしていると、いきなり別のボートがドンとぶつかってくる。頭に来て怒鳴ってやろうと思って振り返ると、ボートには誰も乗っていない。

「他のどのボートにもキャプテンがいないように、私のボートにもキャプテンはいないのだ」と、今彼は気づいています。ただ、いるように見えているだけなのです。

 

非二元のテキストがいいなと思うのは、こまめに「神聖さ」が不要であると注意してくれるところだ。私は努力して何かいいものになろうとしなくていい。あーそれってなんて素晴らしいことだろう。

自分から何かを取り除こうとするのは、まったく無駄なことです。なぜ私たちは神聖な状態にいなければならないのでしょう? どうして自分の人格を裁いたり、エゴをなくそうとしたりしなければならないのでしょう? 素のままの意識は、それの中に生じるものに判断を下すことに関心などありません。テレビ画面は俳優が何か言ったから、何かしたからと判断を下したりしませんが、それと同じです。

トニー・パーソンズは言います。「だからリラックスし、すべてが生じるままに身を委ねなさい――いずれにせよ、すべては生じるのだから。あなたがどう振る舞うべきか、どうあるべきか指示をするこの見せかけばかりの内なる声を手放すのだから、さぞかしホッとすることでしょう。今ここで、ただ手放しなさい」。これを読んでいる間も、これらの思考が生じては退いていくのを何かが見ている、そんな感覚をおぼえるかもしれません。まさに今「上後方に何か」がいて、見ているような感じがするでしょう。この目撃者は判断を下す能力を持たず、ただ単純に見ています

 

ところでこの本がとてもおもしろく読めて、読了後の今も気楽さがあるのは、何かを理解しようとか、救いを得ようというのではなくて、「読みたかった本がUnlimitedに入ってるぜ ラッキー♪」という気分で読み始めたからだと思う。Kindleということもあり、最初は流し読みでどんどん読んで、気になるところを読んで、また頭から読み返したり、適当に読んだ(笑)。こういう本は、あまり真面目に読まないほうが(深刻に受け取らないほうが)、かえっていいのかもしれない。

 

ちなみにこれを読んで「頭がない方法」のサイトを久々に見に行ったら、ヤンがダグラス・ハーディングの2000年のインタビュアーをしていて、知り合いにあったような気持ちになった。http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/99_blank021.html

今日のスタンプ

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