月別アーカイブ: 2018年3月

風をつかむことはできない

問題は、不幸ではなくて、幸福のほうにあるんじゃないかな。

喜びを感じるとそれを掴んでおきたくなる。絶対、二度と、手放したくないと。

自分が手に入れた。自分にはその権利がある、価値があるのだと。

 

愛はいつもその手を放す。

愛があなたを見捨てるように見えるのは、

愛があなたを掴んだことなど一度もないからだ。

 

風をつかむことはできない。

どんな突風も、掴んでそこにとどめておくことはできない。

どんな柔らかな風にも、再現性はない。

もう一度、もう一度と、どんなに努力しても願っても、どんな犠牲を払ったって、無駄だ。

風はそういうもんじゃないとわかってるけど、

すべてがそういうもんじゃないということがわからない。

それでどんな犠牲を払っても、などと奇妙なことを考えはじめる。

 

風をつかむことはできない。

でも、風はいつも吹いている。

 

 

私というビルの中に部屋がたくさんあって

すべての思考と感情が通り過ぎていく。掴んで、そのまま維持しておくことはできない。だけど、ぜひそうしようとムダな努力をしている。

ものは整理できるけれど、思考や感情は整理できない。

ただ、やってきて、去っていく。保管庫もないし、分類用の箱もない。

なのに、なぜかあると思ってる。

幸せの箱をいっぱいにしてたくさん集めて、不幸の箱を空っぽにしようという試み。

そんな箱はない。ないからできない。

そんなシステムはないのだけど、この謎の試みに夢中になって、中毒している。

私というビルの中に部屋がたくさんあって、その中にいろんなものを詰めてると思っている。

いかにしてどれほどいいものを詰め込めるかというのが人生だと思っている。

 

ビルはないし、そこはただの原っぱで、風が吹いている。

中毒について2

さっきの記事のつづき

中毒というのはすごいエネルギーだと思われている。何かに対する激しい情熱が人を突き動かすと思われている。

と書いたけれど、思っていたのは私で、長い間、この中毒的な力こそ必要だと思っていた。

中毒的な力は偉大で、私にさまざまなことを可能にしてくれる大切なもの、創造性の源だという大いなる勘違いをしていた。

何年も前からその存在は知っていた思考停止を、なぜかわからないけれど実践してみると、いろいろなメッセージがリンクしていることに気づく。

インナーゲームのセルフ2に任せることも、ガンガジにパパジが言った「やめる」ということも、ユーフィーリングの「何もしない」も。トランサーフィンも振り子に捕まりたくなければ、からっぽにしておけ、と言っていた。ほかにもたくさんの人が言っていたと思う。(もちろんディティールはそれぞれ違うのだけれど)

自然の力は偉大で、そのままにしておくと種は大きな木に成長する。

そこに何か駆り立てるような焦燥とか、達成への執着のようなものは必要ない。あったら面倒なことになる。

 

ところで中毒は創造しないといったけれど、「それでもいい、そこにはかけがえのない楽しみがあるから」と思うかもしれない。

でも中毒しなくても楽しいものは楽しいようだ。むしろ、焦燥がないだけリラックスして、そのものの本来の魅力を楽しめる。砂糖を食べ過ぎると、もっと甘いものが欲しくなるけれど、砂糖の中毒になっていなければカカオ88%のリンツのチョコレートのおいしさがよくわかるということだ。中毒するのをやめれば隔てていたガラスが取れてその魅力がすっと入ってくるだろう(そのとき人間を依存症にするためだけに作られたものは楽しめなくなるだろう)。

中毒について

好きなこと、楽しいことについて考えふけってしまう。それは一見いいことのように思えるかもしれないけれど、自動的に始まる思考にとらわれていることに変わりはなくて、そこで膨大なエネルギーが浪費される。

思考は好きなものについてであれ、嫌なものについてであれ、始まると答えを求めて走り出す。なんであれその都度の暫定的な答えにしがみつこうとする。それでいてしがみつけるような答えなど出はしない。だからこのしがみつこうとする試みはいつも不可能への挑戦で、苦しい。

ところで中毒というのはすごいエネルギーだと思われている。何かに対する激しい情熱が人を突き動かすと思われている。

また、中毒していることについて人はそれを自由意志で選択していると思い込んでいるから、中毒しているものを摂取する(取り組む)「自由がある」と思っている。でも実際はその逆だ。あたりまえだけど。

そして、そういう力がさまざまなことを達成するエネルギーになると思っている。
でも中毒の力が達成することはおどろくほど少ない。

唐突だけれど、デパ地下に行くと、小麦と砂糖からできた製品ばかりが並んでいる。あれほどの多種多彩なお菓子が並ぶというのは、お肉では考えられない。お肉は食べれば食べるほどもっと食べたくなる、というものではなくて、適量をとると人間の体からもう充分だというホルモンが出る。でも小麦や砂糖はそうではない。そして過剰な小麦や砂糖は人間の体にろくなことをしない。

同じように思考に関しても、中毒のエネルギーはたしかにすごい。でもそれは浪費されるエネルギーで、自由に使えるエネルギーではない。

創造はそうした中毒的なエネルギーの結果ではなくて、むしろそうしたエネルギーの空白地帯で起こる。

(ここでトランサーフィンの「振り子」について思い出す。多分、このことについて詳しく書いていたはずだ。「振り子の法則」リアリティ・トランサーフィン―幸運の波/不運の波の選択