中毒について

好きなこと、楽しいことについて考えふけってしまう。それは一見いいことのように思えるかもしれないけれど、自動的に始まる思考にとらわれていることに変わりはなくて、そこで膨大なエネルギーが浪費される。

思考は好きなものについてであれ、嫌なものについてであれ、始まると答えを求めて走り出す。なんであれその都度の暫定的な答えにしがみつこうとする。それでいてしがみつけるような答えなど出はしない。だからこのしがみつこうとする試みはいつも不可能への挑戦で、苦しい。

ところで中毒というのはすごいエネルギーだと思われている。何かに対する激しい情熱が人を突き動かすと思われている。

また、中毒していることについて人はそれを自由意志で選択していると思い込んでいるから、中毒しているものを摂取する(取り組む)「自由がある」と思っている。でも実際はその逆だ。あたりまえだけど。

そして、そういう力がさまざまなことを達成するエネルギーになると思っている。
でも中毒の力が達成することはおどろくほど少ない。

唐突だけれど、デパ地下に行くと、小麦と砂糖からできた製品ばかりが並んでいる。あれほどの多種多彩なお菓子が並ぶというのは、お肉では考えられない。お肉は食べれば食べるほどもっと食べたくなる、というものではなくて、適量をとると人間の体からもう充分だというホルモンが出る。でも小麦や砂糖はそうではない。そして過剰な小麦や砂糖は人間の体にろくなことをしない。

同じように思考に関しても、中毒のエネルギーはたしかにすごい。でもそれは浪費されるエネルギーで、自由に使えるエネルギーではない。

創造はそうした中毒的なエネルギーの結果ではなくて、むしろそうしたエネルギーの空白地帯で起こる。

(ここでトランサーフィンの「振り子」について思い出す。多分、このことについて詳しく書いていたはずだ。「振り子の法則」リアリティ・トランサーフィン―幸運の波/不運の波の選択

 

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