中毒について2

さっきの記事のつづき

中毒というのはすごいエネルギーだと思われている。何かに対する激しい情熱が人を突き動かすと思われている。

と書いたけれど、思っていたのは私で、長い間、この中毒的な力こそ必要だと思っていた。

中毒的な力は偉大で、私にさまざまなことを可能にしてくれる大切なもの、創造性の源だという大いなる勘違いをしていた。

何年も前からその存在は知っていた思考停止を、なぜかわからないけれど実践してみると、いろいろなメッセージがリンクしていることに気づく。

インナーゲームのセルフ2に任せることも、ガンガジにパパジが言った「やめる」ということも、ユーフィーリングの「何もしない」も。トランサーフィンも振り子に捕まりたくなければ、からっぽにしておけ、と言っていた。ほかにもたくさんの人が言っていたと思う。(もちろんディティールはそれぞれ違うのだけれど)

自然の力は偉大で、そのままにしておくと種は大きな木に成長する。

そこに何か駆り立てるような焦燥とか、達成への執着のようなものは必要ない。あったら面倒なことになる。

 

ところで中毒は創造しないといったけれど、「それでもいい、そこにはかけがえのない楽しみがあるから」と思うかもしれない。

でも中毒しなくても楽しいものは楽しいようだ。むしろ、焦燥がないだけリラックスして、そのものの本来の魅力を楽しめる。砂糖を食べ過ぎると、もっと甘いものが欲しくなるけれど、砂糖の中毒になっていなければカカオ88%のリンツのチョコレートのおいしさがよくわかるということだ。中毒するのをやめれば隔てていたガラスが取れてその魅力がすっと入ってくるだろう(そのとき人間を依存症にするためだけに作られたものは楽しめなくなるだろう)。