私もカンヌで絶賛したかった「お嬢さん」

見なきゃと思いながらどうも気が進まなくて、ついに見たのだけれど、こんなに素晴らしいならもっと早く見ればよかったと悶絶するという一人コントを繰り広げていた。本当に素晴らしくて、途中声をあげて笑っちゃうくらいで、ガッツポーズして最高!って感じだった。

素晴らしい映画についてはそんなに言うことがないし、コメントもしにくい。これはどう考えてもネタバレ回避すべき作品だ。

でもうっすらとネタバレしないとこの先が書けないので、この先を読むと、どことなく、わかってしまうので見る前に読まないでください。


不信が信頼へと変わる喜びが映画的経験にはあって、もうこれはひどい話なんじゃないか、見たあとうんざりするんじゃないか、感情を振り回されて疲れ果てるんじゃないかという疑いとともに進んでいくと、うわー!!最高じゃないか!!なんてことだーー!!!っていう歓喜に変わる。最初から大丈夫だよと言われてるとそういう振り回されは起こらないから、ディズニー映画とかはもうその時点で、損してるよね。韓国映画はどんな弾が飛んでくるかわからない怖さがあるのでかなりハラハラした。これはカンヌ映画祭で見て十分間のスタンディングオベーションに参加したい人生だった。

映画の内容も不信が信頼へと変わる喜びについて描いている。不信、不信、不信。しかし泥沼の中に美しい花が咲く。純粋さ、素朴さ、勇気が勝利する世界を入り組んだ構成で正面から豪速球で投げる。こんなことができるんだな。ふつう寓話のようになってしまうことを恐れる。でも情熱をもってそれをやる。寓話と言えば寓話なのだ。おとぎ話のような世界観だ。ただしエロくてグロくてサスペンスフルな、本来の意味でのおとぎ話だ。

あーー素晴らしいものって思考の必要がないんだ。賞賛はバカっぽい。けどそれが賞賛だ。正真正銘の。

何も言うことはないし、言葉を尽くす必要もない。すでにすべて映画が語っている。スタンディングオベーションというのは便利だ。

映画はまた危うく始まりそうに…「私の少女」

※うっすらとネタバレしています。

見終わった時にはこんなのってありかぁーと放心状態だったのだけれど、感想を検索してある仔細な評論を読んで、その全てに同意するわけではないし理解できている自信もないのだけど、「ああ、そうだった映画とはこういうものだった」と思い直して、相当な傑作を見たという感動があとからじわじわと広がった。

「映画とはこういうものだ」というのは、「現実の正しさを超えた映画的正しさが存在する」というようなことで、そんなこと当たり前だろうと言われそうだけど、ここでいう正しさは法や倫理という意味ではない。そういう外側の正しさを破ることはどんな映画でももちろん常に起こっている。けれど、それらの映画がどこに向かうかといえば内面的幸福とか充実という第二の(というかいわゆる本当の)正しさだ。

でもこの映画は結局、どうもそこじゃないところ向かって進んでいく。主人公の内面的充実には向かわない。つまり、地獄へ向かって終わる(ように見える)。主人公は担えない重荷を背負って進もうとする。予感は不吉で不穏だ。しかしそれでいい。

だからこそ終わりの場面で、映画はまた危うく始まりそうな素振りを見せることができる。それこそが映画的正しさであり、映画は人間のすべてを肯定するための映像なのだった、と久々に思い出す。(そう思い出す前に私が思ったのは、「連れてっちゃだめー」というマヌケな感想だ。あるいは映画の半ばでは「オーストラリア行きなよ〜!」と心から思った。友達にならそう言うべきだが、それでは映画にならない。)(オーストラリアといえば、元カノの妙に色っぽい存在感に感動した。だからこそ「オーストラリア行きなよ!!」と思った。(2回目))

ペ・ドゥナは、ガリガリの棒切れのような体に警察署長の服をまとってそこに立つだけで、強さと弱さの危ういゆらぎを表現できてしまう。私はペ・ドゥナの作品を見るのはなんと今回が初めてで、恐れ入りましたとひれ伏した。かっこいい。うまい。最高。しびれる。憧れる。

それから、この映画には女に対する幻想抜きのエロスが、少女を題材にしているから緊張感と危うさを伴いながらしかし明確に描かれている。それはふわふわキラキラしたものでもなければ、欲望が炸裂するようなものでもなく、もっと生理的な皮膚感覚あるいは喉の渇きに近いもので、たとえば「ウンギョ」の少女に投影されたものとは遠く離れたところに存在している。もっと女性監督による映画が作られるといいなと思う。

私の少女(2014)
監督 チョン・ジュリ
出演 ペ・ドゥナ、キム・セロン

チョン・ジヒョンの哀しい背中「ベルリンファイル」

どういうわけか気が重くて感想を書けないでいたのは、チョン・ジヒョン演じる大使館通訳職員が「接待」を行うシーンのためだろう。実際にはそのシーンは描かれないにもかかわらず、どうもそのことを思い出して疲れてしまう。独裁者による恐怖政治の下では命も簡単に奪われる一方で、こうした命に関わらないが魂を踏みにじられるような出来事が頻繁に起こり、女性や子供が安易に被害者となる。問題は、悪人とまでいえない者がそうした行為に手を染めて平然としており、被害者もまた変わらぬ日常をなんとか続けることで自己を保とうとする点だ。声をあげることができない。

悪人ではないふつうのひとですらそうなのだから、悪人の悪辣さは救いようがない。映画はエンターテイメントとして作られており、悲惨すぎ、残忍すぎるものは映らないし、ほのめかされもしない。クライマックス直前、彼らはある種不自然なほど紳士的に振る舞うが、現実はもっと容赦がないだろう。そのことが予感されて映画の外で暗澹たる気持ちになる。

さすがにこの映画では、「暗殺」でも見ることのできたファッショナブルなチョン・ジヒョンは見られない。ブラウスもコートも安っぽく、ベルリンの街で寒々しく時代錯誤的に映る。美しさは残酷な予感を掻き立てる。

北朝鮮人の暗澹たる役柄を演じながらチョン・ジヒョンはいくつかのシーンでいつものようにはっとさせる。幼い子供を亡くし、身をやつしながら現在の生活を続ける女が、疑いにまみれ疲れきって、薄暗い部屋で夫を見上げ、何事かつぶやくとき。腹を撃たれ血を流し、夫の腕に抱かれながら、ようやく本心を伝えるとき。この女に幸福があるなら、たしかに夫の胸のうちで、回復された信頼のなかで、死んでいくことだろうと思わせる。チョン・ジヒョン演じる女の生の温かみを感じることのできた唯一のシーンが、この死の場面だった。

なおハ・ジョンウが「暗殺」につづいて極めていい男の役であり、この人がキム・キドクの「絶対の愛」の男だとようやく知って、年のとり方に感嘆した。

ちなみに「10人の泥棒たち」、「暗殺」、「ベルリンファイル」と2010年代のジヒョン出演作を三作続けて見たうちで、一番映画として飽きさせず、よくできているのがこの「ベルリンファイル」だ。だが、不思議なことにまた見たいと思うのは、この作品でも、ジヒョンの出番も見どころも多い「暗殺」でもなく、最も予定調和で退屈もした「10人の泥棒たち」だ。

なぜなら「10人の泥棒たち」のチョン・ジヒョンはいつものように笑わせてくれるから。「ベルリンファイル」も「暗殺」も、明確にエンターテイメント作品として作られ、満足のゆく仕上がりであるにも関わらず、そこには克服しがたい現在進行系の哀しみが刻まれている。