一人称のクリアなビジョン『ホームには誰もいない』

ヤン・ケルスショットの『ホームには誰もいない』を読んだ。タイトルが(ミステリー小説みたいで)かっこいいなと思って前から気になっていたのだけど、一年くらい前に本屋さんで手にとったときに「おお文字ぎっしり」と圧倒されて、本棚に戻したのを覚えている。それでも気にはなっていて、数日前、KindleUnlimitedで読めるようになっていたことに気づいてうれしくなって手にとった。

この本は、ダグラス・ハーディングの「頭がない方法」を使って、誰もいないということを説いていくいわゆる非二元系の本だ。「頭がない方法」の実験は動画を見たり、『今ここに死と不死を見る』を読んだりして、私もやったこともあるけれど、よくわからなかった(よくわからないなりに結構しつこくやった)。

それがこの本の説明を読むと、あ、というのがあって(といっても、自分がひゅんと消えたりはしていないけど)、前よりはだいぶわかった。鏡を見て、鏡に映っている三人称の自分を見たあとで、じゃあこちら側にいるのは? と見てみると、以前は「いやいやこの写っている人の元がいるよ」とか思っていたけれど、いまはなんとか「ああー、そんな単純なことか」と思った。

自分の手を眺めて、自分はこの手の中に閉じ込められているのか、それとも、自分の中にこの手があるのか、という問いかけがダグラス・ハーディングの本にある。それから、実験で床を指差し、自分の投げ出した足を指差し、腹、胸、ときて頭を指差す。そこに何があるか?という実験もある。

これらの実験がおもしろい、とは前にやったときにも思っていた。とても重要なことだという予感もしたが、予感どまりだった。たぶん単純過ぎて受け入れられなかったのだ(今もそれなりだ)。

私はそのとき大学で哲学を勉強していて、その話を大学の友人にした。「それがウィトゲンシュタインがいっていたことだ」とその友達は言った。私はウィトゲンシュタインは一年間ゼミで『論考』を勉強したのだけど、ちっともわからなくてよくその友達に相談していた。だから、ほーーそうなのか、と思った。でもその友達は結構生きるのが大変そうで、ウィトゲンシュタインもあまり幸せそうではない哲学者のひとりだ(哲学者はたいていあまり幸福そうではないが、不幸そうな哲学者ランキングでもウィトゲンシュタインはかなり上位に入るだろう…)。私は「これ」がわかったらハッピーで無敵になれるんじゃないかと思っていたので、意外だったし、そのことを友達に言いもした。友達は笑っていたような気がする。

この本にもウィトゲンシュタインの引用があった。

私たちを煩わせること、それは
マインドは自分の中に住む小さな人間だと
私たちが信じてしまうことである。

ウィトゲンシュタインとダグラス・ハーディングは、『ただそのままでいるための超簡約指南』でも、こんなふうに紹介されている。

「意識」や「知覚」といった用語はそれ自体、「~を意識している」「~を知覚している」という経験をかなり不可解なかたちで具象化、あるいは奇妙なかたちで名詞化したものだけれども、そういう経験は頭の中で起こっているとは限らないんじゃないだろうか。知覚は経験の構造そのものだ。知覚が頭の内側に存在しているなんてことがありえるだろうか? (このことをはっきりと指摘した人は多いが、もっとも卓越していたのは後期の著作におけるルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、それにダグラス・ハーディングだ

(ここだけ読むと難しいけど『ただそのままで〜』はすごくわかりやすい本。)

ウィトゲンシュタインのことはまあ、いい。とにかく、ヤン・ケルスショットのこの本はおもしろくて、おもしろいなあおもしろいなあと思いながら読んだ。

彼らが私たちに向かって指を差し、「あなたは、あの小さい子なんだよ」と言うのを聞きながら、徐々に私たちは一人称で見ていた自分の世界、開かれた気づきでいられる世界を、他者の視点から見る世界に交換していきます。これを「三人称のビジョン」と呼びます。第三者、外部者が築いた概念だからです。言い換えると、自己という感覚を築くにあたり、他者が自分についてどういうイメージを持っているかがどんどん重要になっていくということです

三人称のビジョンで生きるとは、他人のようにして自分を生きることで、普通にとても不自然だ。でも、それをやってる。思うのだけれど、思春期に生きるのが急激にしんどくなるのは、本格的に三人称で生き始めるからじゃないだろうか。三人称でいなければ、三人称の自分を強化しなければという思いこみが強くなる時期だ。

でも、だからといって人はずーーっと三人称のビジョンで生きているわけではない。一人称の自分、つまり開かれた、透明で、無限な自分であることも普通にある。だから、意識的に一人称の自分に気づいたとき、なんだ、これのことか、となる。

とても簡単な質問です。相手の目を見たとき、自分の目も見えますか。思考せずに本当にクリアな状態で見ると、自分の側にはクリアな空虚が見えます。

内を見つめないとしたら、 外も見つめないとしたら、 何が残る? それになりなさい。 ――ミラ・パガル

「これが私の感じていること」「これが私の考えていること」「これが私という人間だ」などと言います。最終的にはいわゆる自分の特徴をすべて集めて一つの箱に入れ、「これが私だ」と言うのですが、そんな風に言い切ることが実際に可能でしょうか? 思考、感情、知覚の集まり、本当にこれが私たちなのでしょうか?

私たちは、真に永続する「人」を私たちの中のどこかに見出すことができるでしょうか

 

自分というものを強固に立派なものにしたくて歯をくいしばって、というほどではなくてもそれなりにがんばってきたと思うのだけど、「自分がいない」がこんなに解放的だというのはどういうことなのだろう。ほんとうにふざけている。

美しい挿話があった。湖に浮かべたボートでのんびりしていると、いきなり別のボートがドンとぶつかってくる。頭に来て怒鳴ってやろうと思って振り返ると、ボートには誰も乗っていない。

「他のどのボートにもキャプテンがいないように、私のボートにもキャプテンはいないのだ」と、今彼は気づいています。ただ、いるように見えているだけなのです。

 

非二元のテキストがいいなと思うのは、こまめに「神聖さ」が不要であると注意してくれるところだ。私は努力して何かいいものになろうとしなくていい。あーそれってなんて素晴らしいことだろう。

自分から何かを取り除こうとするのは、まったく無駄なことです。なぜ私たちは神聖な状態にいなければならないのでしょう? どうして自分の人格を裁いたり、エゴをなくそうとしたりしなければならないのでしょう? 素のままの意識は、それの中に生じるものに判断を下すことに関心などありません。テレビ画面は俳優が何か言ったから、何かしたからと判断を下したりしませんが、それと同じです。

トニー・パーソンズは言います。「だからリラックスし、すべてが生じるままに身を委ねなさい――いずれにせよ、すべては生じるのだから。あなたがどう振る舞うべきか、どうあるべきか指示をするこの見せかけばかりの内なる声を手放すのだから、さぞかしホッとすることでしょう。今ここで、ただ手放しなさい」。これを読んでいる間も、これらの思考が生じては退いていくのを何かが見ている、そんな感覚をおぼえるかもしれません。まさに今「上後方に何か」がいて、見ているような感じがするでしょう。この目撃者は判断を下す能力を持たず、ただ単純に見ています

 

ところでこの本がとてもおもしろく読めて、読了後の今も気楽さがあるのは、何かを理解しようとか、救いを得ようというのではなくて、「読みたかった本がUnlimitedに入ってるぜ ラッキー♪」という気分で読み始めたからだと思う。Kindleということもあり、最初は流し読みでどんどん読んで、気になるところを読んで、また頭から読み返したり、適当に読んだ(笑)。こういう本は、あまり真面目に読まないほうが(深刻に受け取らないほうが)、かえっていいのかもしれない。

 

ちなみにこれを読んで「頭がない方法」のサイトを久々に見に行ったら、ヤンがダグラス・ハーディングの2000年のインタビュアーをしていて、知り合いにあったような気持ちになった。http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/99_blank021.html

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