中毒について

好きなこと、楽しいことについて考えふけってしまう。それは一見いいことのように思えるかもしれないけれど、自動的に始まる思考にとらわれていることに変わりはなくて、そこで膨大なエネルギーが浪費される。

思考は好きなものについてであれ、嫌なものについてであれ、始まると答えを求めて走り出す。なんであれその都度の暫定的な答えにしがみつこうとする。それでいてしがみつけるような答えなど出はしない。だからこのしがみつこうとする試みはいつも不可能への挑戦で、苦しい。

ところで中毒というのはすごいエネルギーだと思われている。何かに対する激しい情熱が人を突き動かすと思われている。

また、中毒していることについて人はそれを自由意志で選択していると思い込んでいるから、中毒しているものを摂取する(取り組む)「自由がある」と思っている。でも実際はその逆だ。あたりまえだけど。

そして、そういう力がさまざまなことを達成するエネルギーになると思っている。
でも中毒の力が達成することはおどろくほど少ない。

唐突だけれど、デパ地下に行くと、小麦と砂糖からできた製品ばかりが並んでいる。あれほどの多種多彩なお菓子が並ぶというのは、お肉では考えられない。お肉は食べれば食べるほどもっと食べたくなる、というものではなくて、適量をとると人間の体からもう充分だというホルモンが出る。でも小麦や砂糖はそうではない。そして過剰な小麦や砂糖は人間の体にろくなことをしない。

同じように思考に関しても、中毒のエネルギーはたしかにすごい。でもそれは浪費されるエネルギーで、自由に使えるエネルギーではない。

創造はそうした中毒的なエネルギーの結果ではなくて、むしろそうしたエネルギーの空白地帯で起こる。

(ここでトランサーフィンの「振り子」について思い出す。多分、このことについて詳しく書いていたはずだ。「振り子の法則」リアリティ・トランサーフィン―幸運の波/不運の波の選択

 

よくわからないことは多い(思考停止メソッド)

「自分で考えるのをやめる」という思考停止メソッド(?)を始めて一週間とちょっと過ぎた。そうはいっても全然たくさんのことを考えているけれど、「もやもやと思い悩む」というほど考え続けることはなくなった。

思考が始まると、ある程度のところでたいていは不快感が始まる。そこで、「あ、考えるのはやめたんだった。潜在意識が全部完璧にしてくれるんだ」という決まりごとに気づく。考えるのをやめる。思考はしつこく湧いてくることもあるけれど、頭のなかで何かと何かが戦い続けるようなことは減った。

変化はある。なんとなく、というかはっきりと、寝起きがすっきりしている。いままでもたまにそういうことがあったけれど、最近は連続してすっきりしている。目の周りがひんやりして(それは冬だから)、頭が空っぽでクリアな感じがする。気分も少し、いやだいぶ軽くなっている。

自分で何も考えない。すべては完璧な潜在意識が執り行う。そうすると、だいたいのことはわからなくなる。何が正しいのかわからない。AかBかと質問されてもわからない。自分で考えないので、わからないのは当然だ。まあ、人に聞かれればなんとなくしゃべる、わからないなりに。でも参照すべき客観的な正しさはどこにもない。これは正直すごく気が楽だ。

たとえば誰かの特定の振る舞いをどう思うか。わからない。自分がどう感じているかはわかる(それを言葉で表現できるかは別として)。ただ、どう感じるべきかはわからない。また、他者がどう感じるべきかもわからない。他者がどう感じているかはその人が感じているだろう。

この世によくわからないことは多いのに、わからなくちゃいけないとなぜか思い込んできた。わからないことは悪いことではない。ただわからないというだけのことだ。そのままにしておいてもいい。

自分の立場を明確にしてそれを守り通すための力が必要なくなると、エネルギーも浪費されなくなる。

わからないでいいと思うと本当に楽だ。

というか、ずっと前から、何が正しいかなんて、全然わからなかったのだ。ずーっと、わからなかった。そのことをようやく受け入れたような感じだ。諦めというより、安堵感。

考えなくても、わからないままでも、問題なく物事は進んでいくし、普通に行動もしている。ちょっと信じられないけれど、こういう世界があったのだ。

「インナーゴルフ」が素晴らしすぎた。

「インナーゴルフ」というかインナーゲームオブゴルフ。すごい大胆に端折った邦題だ。

とにかく素晴らしくて、線を引きまくり丸をしまくって読んだ。引用とかもうめんどくさいので、買って読んで下さい。本当に素晴らしいです。スピリチュアル系の本読んでる人からしたらわかる、わかるよ!ってなるし、かといって地上から数センチ浮いてない系の実用書なので、ふふふふふという感じでわくわくしてくる。とりあえずゴルフやりたくなる。

セルフ1を黙らせる。セルフ2を信頼して任せる。これってもう完全に「自分で何も考えない。潜在意識がすべてやってくれる」の世界観。一応基本はセルフ1が目標とかどうしたいかを決めるんだけど、途中からそれもセルフ2にやらせよう、ってなる。「もう私にはどうしたらいいかわからないので、君がやってくれ」的なことを言い出す。サレンダー。

やっぱり号泣したところだけ引用しよう。特別に。

これは、私の勝利だった。(…)私は幻想を打ち砕いたのだ。専制君主の支配から脱出することができたのだ。私はずっと長い間、その支配から逃れられなかった。いい結果を出したときにはいい気分と名誉が与えられ、失敗したときには自分を責め、無力感にさいなまれた。その褒美を目当てに、私は彼の奴隷となって、いつもいいショットを打とうとしてきた。けれどこのときの一打を境に、私は自分の内側の専制君主に決別し、独立を宣言したのだ。彼は私から真の喜びを奪い、芸術を奪い、彼が要求する結果を自ら邪魔だてしてきた。彼が私に与えてきたつもりの褒美は、実は現実ではなく、幻想の幸福に過ぎなかったのだ。私はボールに向かって歩きながら、そう考えた。私はこれでより強くなったのだとも思わなかった。自信がついたとも感じなかった。ただ単に、誘惑に強く、傷つきにくくなったのとだけ、感じることができた。

生きるって本当は純粋に喜びで、この身体を持ってさまざまなことを感じるということがそれ自体ものすごい僥倖、奇跡の瞬間の連続みたいなものなんだろうと思う。感じること、知覚すること、気づくことは同じことの繰り返しではありえない。不安定で不確か。だからこそ新鮮な喜びに満ちている。
生きるって要するにそういうことなんでしょ。

なのになぜかセルフ1とここで呼ばれる私たちの思考は、そこで安定を求め、同じことを繰り返そうとする。なぜ? 自分の存在意義を証明するためだ。生き延びるためだ。つまり本当はセルフ1は実在しない。自分が架空の存在だってことを知ってるんだ。Unicorn is Real, but self 1 is not real!!!

自分が一生懸命考えて批判して判断しているから安全が守られるんだよってことを証明することで、自分が実在しないことをごまかす。そのために、うまくいかないときは自分(セルフ2)を叱責し、うまくいってるときは自分(セルフ2)を疑うことをし続けた。なんて奴!!

でも、そもそもなんでそんなやつのいうこと聞かなきゃいけないんだ???? なんでそんなやつのいうこと聞いてきたんだ!!?? 非実在存在のいうことを真に受けて。

だいたいなんでもセルフ2がやってんだよ。呼吸も歩くことも、手を伸ばしてコップをとることも、ゴルフのスイングも、こうして文字を打つことだって。

ここで唐突にガルウェイのフォーミュラ。

P=p-i
パフォーマンス=ポテンシャル−インタフェア
(発揮する能力=潜在能力−妨害活動)

ワオ、ワオ、ワオという感じだ。シンプル真理すぎる。

セルフ1を黙らせて、セルフ2にすべてを任せる。それでも残る何かが「誠意」だったとガルウェイはいう。なんということだろう。

究極の誠意とは、もはや何も考えない状態に至ったとき、最後に残る「何か」のことだ。